岐阜新聞に小早川秀秋が関ヶ原合戦前に陣を置いた松尾山の記事があり、興味深く拝見した。こちら。西軍に属した秀秋は西軍の挙兵に際して、東軍の伏見城攻撃に参加したが、その何とも情けない理由とは。

■伏見城落城する

 慶長5年(1600)7月19日、宇喜多秀家ら西軍の軍勢は、東軍の拠点で鳥居元忠が籠る伏見城(京都市伏見区)を包囲した。

 西軍の軍勢は約4万。一方、伏見城の城兵はわずか1800ほどだったという。まさしく多勢に無勢だった。

 伏見城の城兵はよく東軍と戦ったが、同年8月1日に伏見城は落城した。城将の元忠は、鈴木重朝(孫一、孫市とも)によって討ち取られた。

■小早川秀秋が伏見城攻撃に加わった理由

 この伏見城攻撃軍のなかには、小早川秀秋も加わっており、当初は西軍に属していた。なぜ、秀秋は西軍に与したのだろうか。

 関ヶ原合戦の勃発に際して、『寛政重修諸家譜』(稲葉正成家譜)には、次のような経緯を書き記している。箇条書きにして列挙しよう。

①上杉景勝の反逆時、秀秋は伏見城に使者を送り、東軍に忠節を誓っていた。

②秀秋は兄・木下延俊の居城・姫路城を譲り受けようとし、家康の許可を受けたが、それは延俊により拒否された。

③家康が伏見から下向した際、秀秋の家臣の稲葉正成・平岡頼勝は密事を報告した。

④正成の養子・政貞が家康に近侍することになった。

⑤密事の内容とは、三成らが謀叛を企て、秀秋に秀頼の幼少時は天下を委任すること、筑前・筑後に加えて播磨一国と近江国内に10万石を与えること、正成には黄金300両与えることである。

⑥秀秋は伏見城に使者を遣わし、鳥居元忠に味方すると伝えたが拒否され、心ならずも西軍の面々と伏見城を攻撃した。

⑦秀秋の気持ちは家康方にあったので、正成は秀秋に説いて使者を東軍の黒田長政、山岡道阿弥に送り、豊臣方(西軍)の情勢を報告した。

⑧伏見城落城後、秀秋は三成に安濃津城へ行くよう命じられたが、心から服することはなかった。

■理由の検討

 ここに示したように、秀秋は最初から家康に心を寄せていたようで、伏見城攻撃は止むなく西軍として出陣したということになろう。それを支えたのが、秀秋の家臣である稲葉正成・平岡頼勝の二人だった。

 正成は人質を家康に差し出しているが(④)、同時に西軍も秀秋の取り込みに熱心であったことがうかがえる(⑤)。

 結果として、秀秋が西軍に従ったのは渋々であり、心のなかでは一刻も早く東軍に与したかったようである(⑥~⑧)。

 ただ、『寛政重修諸家譜』は後世の編纂物であるがゆえ、そのまま信じるわけにはいかない。この点をもう少し考えてみよう。

■秀秋が東軍に身を投じなかった事情

 家康の会津征討に従った大名のほとんどは、小山評定において東軍に属した。当時の状況を考慮すれば、家康の面前で西軍に属すると宣言することは、ほぼ不可能に近かったと考えられる。

 同様に考えるならば、三成ら西軍諸将が集まる京都・大坂にあって、秀秋が公然と東軍に付き従う意思を表明することは、非常に困難であったと推測される。下手をすれば、即座に討ち取られる可能性があった。

 そのような事情があったため、秀秋が渋々ながらも西軍に属し、伏見城攻めに参加した可能性は否定できない。

■まとめ

 戦国大名といえば、「武士道」の精神に則って行動したのだから、決して卑怯なことをしないはずと思っている人が多い。しかし、実際の「武士道」の精神とは、近世に入って形成された「武士の理想像」にすぎない。

 この頃の戦国大名は非常に打算的で、「機を見るに敏」だった。つまり、秀秋の例で言えば、東軍と西軍の両軍のいずれが有利なのかを見定め、最終的に東軍の誘いに乗ったということになろう。