【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは
10月28・29日(木・金)の両日、東京の歌舞伎座で「石田三成のふるさと湖北・長浜」が開催される。ところで、関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉をご存じだろうか。
■石田三成の戦場離脱
慶長5年(1600)9月15日、石田三成が率いる西軍は東軍の徳川家康に敗れた。敗北を喫した三成は、無念にも戦場を離脱し、再起を期して逃亡したのである。
その逃亡経路は諸説あるが、伊吹山を経て現在の長浜市で潜行していたのはたしかだろう。しかし、同年9月23日、三成は田中吉政の配下の部将に捕縛されてしまったのである。
■家康の前に引きずり出される
翌9月24日、三成は井ノ口(滋賀県長浜市)を発ち、翌日には家康のいる大津(同大津市)に到着した。家康は大津で三成と面会した際、「三成はさすがに大将の道を知る者だ。平宗盛などとは大違いだ」と述べたという。(『常山紀談』)。
一方で、三成は家康と対面した後、本多正純から、挙兵したことや敗戦しても自害しないことを非難された。この言葉に三成は激怒し、正純を武略を知らない者と面罵し、その後は一切口を聞かなかったという(『名将言行録』ほか)。
9月26日には家康の一行とともに大坂に入った。その後、見せしめとして、大坂、堺、京都の市中を引き回された。こうして10月1日、三成は安国寺恵瓊、小西行長らとともに京都の六条河原で斬首され、三条で晒し首になった(『言経卿記』など)。
■死に臨んでの逸話
ところで、死に臨んでの三成の逸話も多い。
三成を見た福島正則は「無益な乱を起こして、そんなことになっているとは」と大きな声で叱責した。三成は「武運がなく、あなたを生け捕りにできなかったのは残念」と、毅然した態度で言い放ったと伝わっている。
また、三成が小早川秀秋に会うと、「もともと二心を持っているのは知っていたが、太閤の恩を裏切るなど武将として恥ずかしくないのか」と罵倒すると、秀秋は赤面してその場を去ったという(『武功雑記』)。
一方、黒田長政は三成の薄汚れた姿を見て「これでは不本意であろう」と声を掛け、馬から降りて陣羽織を脱ぎ、三成に与えたという(『武功雑記』)。
家康は、処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊に小袖を与えた。行長と恵瓊は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか」と尋ねた。
役人から「上様(家康様)からだ」と言われると、「上様は秀頼公より他にはいない。いつから家康が上様になったのか」と述べ、受け取りを拒否したという(『常山紀談』など)。
三成が刑場に引かれる途中、「喉が渇いた」と同行した将兵に湯を所望したが、お湯が用意できなかった。しかし、将兵は渋柿を持っていたので、三成に差し出した。
ところが、三成は柿に毒が入っているかもしれないので、食べることを拒否した。将兵は処刑目前なのに毒を怖がる三成を笑った。
しかし、三成は「あなたがそう思うのはもっともだが、私のように大義を抱く者は、最期の瞬間まで命を大切にするものだ。それは、何とかして願いを叶えたいという強い思いがあるからだ」と答えたという(『茗話記』)。
このエピソードは、最後の最後までプライドと高い志を持った三成の気持ちを代弁するものとして、長く伝わったのである。
■まとめ
江戸時代に入ると、三成は著しく評価されたが、逆に上記のような逸話も広まった。それは、「三成びいき」ともいえ、その高い志を後世に残したかった人々の気持ちのあらわれだろう。
しかし、上記の逸話を裏付けるたしかな史料はなく、史実か否かは不明なのである。