【戦国こぼれ話】戦国時代の最高学府「足利学校」は軍師養成学校だったという、大きな誤解を解く
10月6日、足利学校(栃木県足利市)で、国宝を含む蔵書の曝書が行われた。ところで、よく足利学校は軍師養成学校と指摘されるが、それは本当だっだのか検証しておこう。
■有名なる坂東の大学
永正・天文年間(1504~54)の足利学校には、約3000の学徒が在籍したといわれている。これは、日本で最大の規模の学校だった。
天文18年(1549)に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると称えた。多くの俊英が足利学校に集まったのは疑いない。
足利学校の成立年は諸説あるが、その歴史が明らかになるのは室町時代中期頃である。学問の興隆と学生の教育に力を入れるべく、鎌倉から禅僧の快元(かいげん)を初代庠主(しようしゅ。校長)に招いた。
その後、関東管領の上杉憲忠が易経『周易注疏』を寄進し、子孫の憲房も貴重な典籍を送ったという。以後も優秀な人材を各地から受け入れ、貴重な書物も収集した。
■難解な中国の古典
戦国大名が刀、弓、槍、鉄砲などの武芸に力を入れる一方、兵法書を学ぶことも非常に重要だった。特に、『論語』、『中庸』、『史記』、『貞観政要』などの中国の古典は重要視されていた。
代表的な兵法書としては、『孫子』、『呉子』、『尉繚子』、『六韜』、『三略』、『司馬法』、『李衛公問対』(武経七書)がある。
奈良・平安時代には、それらの書物が日本に伝わっていたという。しかし、中国の古典は非常に難解で、戦国大名が簡単に読んで理解できるものではなかった。
加えて、為政者としての心得を学ぶため、『延喜式』『吾妻鏡』といった日本の典籍なども含まれていた。
しかし、こちらも戦国大名にとっては難解だったため、学者(公家や僧)から講義を受けることもあった。
つまり、多くの戦国大名は古典をすらすら読んで理解できなかったので、教えてくれる人が必要だった。
その講義は、当時の知識人である僧侶が行っていたのだ。僧侶のなかには、足利学校の卒業生も含まれていた。
■政治ブレーンだった僧侶
そもそも足利学校は、僧侶が儒学、易学、漢籍、兵法、医学などを学ぶ機関だった。たまたま、その卒業生が戦国大名に兵法書の講義をすることもあったのだ。
さらに、彼らは僧籍にありながらも、戦国大名の政治ブレーンとして活躍する者もいた。
たとえば、直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博(こてつそはく)がいた。徳川家康の政治ブレーンである「黒衣宰相」と称された天海も、足利学校の卒業生だ。
鍋島直茂も不鉄桂文(ふてつけいぶん)を招いており、小早川隆景も足利学校出身の玉仲宗琇(ぎょくちゅうそうしゅう)と白鴎玄修(はくおうげんしゅう)の2人を政治ブレーンとしていた。
彼ら僧侶は古典を教授するだけでなく、ときに政治ブレーンや外交(ほかの大名との交渉)などとして、戦国大名に重用されたのである。
■戦国時代になかった「軍師」という言葉
戦国大名の政治ブレーンになった僧侶は、戦争時に軍配師として吉凶を占い、出陣の日取りなどを進言することがあった。具体的に戦術を指示したのではなく、占いにすぎなかった。
実は、戦国時代には軍師という言葉はなく、政治ブレーンだった僧侶を軍師と称するのは間違いである。あえていうならば。軍配師というのが正しい。
武田氏配下の山本勘助といった軍師の活躍する姿は、おおむね後世に成った二次史料に書かれたものにすぎず、史実とみなし難いというのが現状である。
■足利学校は軍師養成学校ではない
足利学校は軍師養成学校といわれることもあるが、それは誤りである。彼ら僧侶はブレーンとして戦国大名に仕え、占いや易学に精通していたので、軍配師の役割を果たしたにすぎない。
つまり、足利学校で学んだ僧侶は、戦国大名のもとで古典の講義、政治ブレーンとしての助言、ほかの大名との交渉役、そして合戦の出陣の日取りなどを占っていただけである。
そもそも戦国時代には、軍師という言葉が存在しなかったのだから、足利学校が軍師養成学校とは到底いえないはずである。