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【戦国こぼれ話】「戦国のゴルゴ13」杉谷善住坊は、織田信長の狙撃に失敗して悲惨な最期を迎えた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
杉谷善住坊は、織田信長の狙撃に失敗して悲惨な最期を迎えた。(提供:Shrimpgraphic/イメージマート)

 9月24日に漫画家のさいとう・たかをさんが亡くなった。さいとうさんの代表作は、「ゴルゴ13」である。ところで、「戦国のゴルゴ13」と言えば杉谷善住坊であるが、織田信長の狙撃に失敗して悲惨な最期を迎えたことはご存じだろうか。

■杉谷善住坊とは

 杉谷善住坊は生年不詳で、生誕地も判然としない。生誕の候補地としては、近江国杉谷(滋賀県甲賀市)、伊賀国杉谷(三重県名張市)、伊勢国杉谷(三重県菰野町)が有力であるが、未だに確定していない。

 姓と思しき杉谷は出身地にちなむもので、単に善住坊と呼ぶことが多い。なお、このような名前なので、僧侶と推測されるものの、その生涯はほぼ不明である。

 とはいえ、鉄砲の名手だったのはたしかなようで、猟師だったとの説がある。ただ、どこで鉄砲の腕を磨いたのかもわからない。

■織田信長を狙撃した善住坊

 善住坊の名前が史上に轟いたのは、かの織田信長を狙撃したからだった。その様子は、『信長公記』に次のように書かれている。

日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前朝倉を滅ぼそうとしたが、浅井長政の離反により失敗し、京都を経て本拠の岐阜に帰還しようとしていた。

 同年5月、信長は近江の千種街道を通過して、岐阜に戻ろうとしていた。千種街道とは近江と伊勢を結ぶ街道で、滋賀県東近江市甲津畑町から三重郡菰野町千種に抜けるルートだった。

 千種街道は、政治経済上も重要視されており、鈴鹿山脈を越えて伊勢湾に通じるルートの一つである。

 善住坊は、信長の仇敵だった六角承禎の依頼を受け、千種街道を通過しようとする信長を狙撃したのである。

 善住坊は2発の銃弾を放ったが、それは信長をかすめただけで、致命傷にはならなかった。信長は、5月21日に無事に岐阜へと帰還を果たした。

■善住坊の悲惨な最期

 信長は落命こそしなかったが、逃げた善住坊を徹底して追及した。善住坊は逃亡生活を送っていたが、ついに阿弥陀寺(滋賀県高島市)に潜んでいたところを磯野員昌に捕らえられた。

 その後、善住坊は信長配下の菅屋長頼・祝重正に厳しく尋問され、最終的にノコギリ挽きの刑を科せられた。

 ノコギリ挽きの刑とは、生きたまま首だけ出して土に埋められ、竹製のノコギリで少しずつ首を斬るという残酷な刑である。

 首を斬るのは、被害者の親族や通行人などだった。それぞれが竹製のノコギリで1回ずつ首を挽くのである。

 打ち首ならば1回で絶命するが、ノコギリ挽きの刑は激痛が何度も繰り返され、散々苦しんだ挙句、死ぬという残酷なものだった。

 フロイスの『日本史』には、名前まで書かれていないが、生きたまま首を斬られた僧のことが記されている。

 これは、おそらく善住坊のことかもしれない。ただ、この僧の罪状は、調略により武将を信長に敵対させたことだった。

■まとめ

 「戦国のゴルゴ13」と言えば聞こえがいいが、それは「ゴルゴ13」の主人公・デューク東郷のように、成功すればという話である。失敗すれば、地獄のような責め苦が待ち受けていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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