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【戦国こぼれ話】岸田文雄自民党新総裁は、徳川家康のように「我慢強い」のだろうかという素朴な疑問

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本当に徳川家康は、我慢強かったのだろうか?(提供:アフロ)

 最近のネット記事を読むと、岸田自民党新総裁は徳川家康のように「我慢強い」と書かれていた。問題は後段の家康が「我慢強い」のかということである。以下、この点を考えることにしよう。

■天下人の性格

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格については、見事に言い表した有名な狂句がある。

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」織田信長

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」豊臣秀吉

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」徳川家康

 気性が激しく短気な信長は、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。逆に、知恵者の秀吉は、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。

 一方、若い頃からの苦労人で我慢強かった家康は、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。これこそが、家康が「我慢強い」といわれる理由の一つになった。

 3つの狂句を書いたのは、第9代平戸藩主・松浦静山である。出典は、天保12年(1841)に完成した随筆『甲子夜話』だ。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作で、多くの人に読まれた。

 しかし、この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのか不明である。江戸時代末期には、3人の天下人の性格がこのような形で定着していたのだろう。

 とはいえ、実際に3人が本当に上記のような性格だったのか否か、論証するのは困難である。

 なお、江戸時代に広まった「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌は、家康が棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものだ。

 では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのか、もう少し考えてみることにしよう。

■苦労人の家康

 天文11年(1543)、家康は三河を領していた松平広忠の嫡男として誕生した。しかし、この頃の松平氏は弱体化が進み、駿河今川氏の従属していた。

 幼かった家康は、今川氏の人質にならざるをえなかった。これが家康の苦難のはじまりだった。

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、家康は今川家から離れて信長に仕えた。

 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死すると、今度は羽柴(豊臣)秀吉に従ったのである。

 慶長3年(1598)の秀吉が没し、家康は2年後の関ヶ原合戦で西軍に勝利した。ところが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡するまで、家康の天下取りは完全ではなかった。

 要するに、家康は信長と秀吉という2人の天下人がいたので、天下取りのチャンスに恵まれず、我慢強く機会を待った。そのことが強調され、先の狂句の内容に採用されたようだ。

■家康の遺訓はウソ

 ところで、家康が「我慢強い」とされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。

 ところが、この家康の遺訓とされるものは、明治時代に幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして創作した、後世の偽作であると指摘されている。

 「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らは、この偽作を日光東照宮(栃木県日光市)など各地の東照宮に奉納した。これにより、偽作の遺訓は「家康の遺訓」として世間に広まった。

■まとめ

 つまり、家康が我慢強かったというのは、江戸時代の伝承や偽作であり、実際はどうだったのか不明である。

 それゆえ、岸田自民党新総裁が徳川家康のように「我慢強い」と表現するのも、留保する必要があるのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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