【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦の前々年、毛利輝元が石田三成に急接近し、結託した真の理由とは
関ヶ原合戦は9月15日に勃発したが、その前々年に毛利輝元が石田三成に急接近していた。今回は、両者が結託した真相について考えることにしよう。
■揺れる毛利輝元の心境
慶長3年(1598)8月に秀吉が没すると、その段階で家康と五奉行(浅野長政を除く)の面々はすでに対立していた。
五大老の一人の毛利輝元は、五奉行(実際は四奉行)に与するべきか、家康に味方すべきか悩んでいた(『萩藩閥閲録』)。判断を誤ると、毛利家の存亡にかかわる問題だった。
しかし、秀吉が亡くなってからわずか10日後、輝元の揺れる心中を察した石田三成は、巧みな手法で自陣に引き入れることに成功する。
輝元は五奉行(浅野長政を除く)と結ぶことを決めたとき、四奉行に起請文を提出した(「毛利家文書」)。
輝元が捧げた起請文は、自ら差し出すと申し出たものではない。三成の要望によって書かされたものだった。
つまり、奉行衆にはそれだけの力があったとみなさなければならないだろう。輝元は秀吉の没後、四奉行を頼ることで、活路を見出そうとしたのだ。
■起請文の内容
起請文の内容は、五大老のうちで四奉行に心得違いをする者があらわれた際は、輝元が四奉行に協力することを誓約したものだった。
心得違いというのは、五大老の誰かが豊臣政権の主導権を掌握しようとする不穏な動きにほかならない。
「五大老のうち」とあえて人名を書いていないが、家康であることは明白である。なお、三成ら四奉行の面々は、浅野長政を親家康派とみなしていたようである。
輝元は起請文の内容を履行するため、家康と四奉行が不和になることを想定し、上方に兵を集結させていた。
その後、輝元は反家康の急先鋒として行動するが、実際に輝元を突き動かしたのは、三成であったことに注意すべきであろう。
こうして秘密裡のうちに、輝元と四奉行は起請文を交わし、同盟関係を結んだのである。
したがって、のちの西軍は石田三成の存在ばかりがクローズアップされるが、むしろ輝元もこの頃から積極的に反家康の行動を取るようになったことに注意すべきだろう。
■侮れなかった五奉行
このように見ると、決して五奉行の存在を侮ることはできず、家康に対抗し得るだけの力を十分に持っていたのは明らかである。
家康が無断で私婚を進めた際、五奉行は五大老の重鎮の前田利家を動かして専横を阻むだけでなく、家康に対抗するため、輝元を味方に引き入れることに成功したのだ。
豊臣政権において、五大老と五奉行に職務上の分担はあったが、明確な上下は特になかった。
諸大名への知行宛行の際、実際に五大老に指示を出していたのは五奉行なのだから、実権を掌握していたのは五奉行のほうだったのかもしれない。
五大老と五奉行の関係性は、従来説から大きく変わっており、実際の職務や政治情勢から力学を看取する必要がある。
そうなると、秀吉死後の豊臣政権の運営のあり方も、従来の見方とは違ったものになろう。輝元は単独では、とても家康に敵わなかったのだ。