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【戦国こぼれ話】豊臣政権に三中老が存在し、徳川家康の会津征討を止めさせようとしたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三中老は徳川家康に対して、会津征討を思い止まるよう説得をしたのだろうか。(提供:アフロ)

 9月15日は関ヶ原合戦。合戦前、三中老(生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏)が徳川家康に対して、会津征討を思い止まるよう説得をしたという。はたして、それは歴史的事実と認めてよいのだろうか。

■三中老とは何か

 「直江状」をめぐっては、ユニークな説がある。徳川家康が「直江状」を読んで激高したところ、三中老(生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏)らが会津討伐を諌止したという説がある。

 三中老については、すでに否定的な見解が強いところであるが、ここで改めて検討することにしよう。

 三中老という用語は、そもそも一般的な歴史用語辞典にも取り上げられていない。三中老については、『甫庵太閤記』『武家事紀』『徳川実紀』などの二次史料に記述が見える。

 ところが、その具体的な職務内容などは不明である。三中老には五大老や五奉行のように、連署して発給した文書などはほとんど見当たらない。

 つまり、三中老という言葉は内実がなく、用語だけが独り歩きしている感がある。したがって、現在の研究段階では、三中老が豊臣政権下における正式な職とはみなされていないようである。

■史料の検討

 慶長5年(1600)5月7日三中老等連署状写(『歴代古案』『古今消息集』)は、三中老らが家康の会津征討を諌止したものである。この連署状だけが、三中老が存在したというほとんど唯一の根拠史料となる。

 この書状に署判を加えているのは、堀尾吉晴、生駒親正、中村一氏という三中老と称される面々に加え、前田玄以、増田長盛、長束正家という五奉行のうち3名である。宛先は、井伊直政である。

 そもそも、すでに指摘されているように、この時点で宛先が井伊直政になっているのは不審であり、榊原康政が適当であると考えられる。登場する人名を見ただけで疑わしい。

■条文の確認

 各条文そのものについても、疑わしい点が多々あるので確認しておこう。全部で5ヵ条にわたる。

 1条目は、三中老が家康に対して、秀頼を支えるため大坂に滞在してほしいと申し出た内容である。

 2条目は、家康の怒りは当然であるが、兼続は田舎者なので仕方がないという理由によって出馬を控えるよう求めたものである。

 3条目は、すぐに軍事行動を起こすと傷がつくので、分別をもってほしいと家康に自重を求めたものだ。

 4条目は、家康は秀頼を支えるべきであり、会津征伐を敢行すると秀頼を見放すことになると書かれている。

 5条目では、会津征伐に際して、「不作」や「飢饉」そして「雪道での軍事行動」を心配して、出馬を見送って翌年にすべきことを提言している。

■疑わしい条文

 どれもこれも、家康の出馬を止めさせる理由としては、納得でき兼ねる点が多い。主張の根本は、家康の役目は秀頼を支えることなので、今は自重して出馬を見送り、来年にしてほしいということだ。

 しかし、戦争というのは時期が重要であり、たとえ雪が降る寒いときであっても、相手の態勢が整わないうちに叩くのがセオリーだろう。「出馬は来年に」という三中老の主張は、誠に手ぬるいのである。

 このように三中老らは、家康の会津征伐を止めさせようとするが、その理由が極めて不審であると考えざるを得ない。したがって、これまでの研究も指摘するように、この書状は極めて疑わしいと結論付けられる。

 現在、三中老は豊臣政権下における正式な職制とはみなされておらず、そのことは最近の研究によりいっそう確定的になったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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