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【戦国こぼれ話】会津征討で上杉景勝は危機一髪。景勝と三成は徳川家康を挟撃する計画だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:アフロ)

 9月15日は関ヶ原合戦であるが、そのきっかけになったのが徳川家康による会津征討だった。一説によると、上杉景勝が上洛をしなかったのは、石田三成と協力して家康を挟撃する作戦だったという。はたして、それは事実なのだろうか。

■上杉景勝、危機一髪

 慶長5年(1600)になると、徳川家康は会津に滞在中の上杉景勝に対して、再三にわたって上洛を促した。

 しかし、景勝の家臣・直江兼続は「直江状」を家康に送り付け、上洛しないことを告げるだけでなく、無礼な言葉で激怒させた。

 こうして、上杉景勝は徳川家康からの上洛要請を拒絶し、両者の対立が決定的になった。やがて、家康は会津征討を決意する。

 こうした流れの中で、常に指摘されるのが、景勝・兼続と石田三成が事前に盟約を結んでおり、上洛拒絶から家康の会津征伐の流れは、両者による作戦だったという説である。

■『続武者物語』所収の書状

 この説の根拠になっているのは、『続武者物語』所収の(慶長5年)6月30日付石田三成書状(直江兼続宛)である。次に、内容を提示しておこう。

先日、御細書(細かく内容を記した手紙)を預かり返事をいたしました。家康は一昨日の十八日に伏見を出馬し、かねての作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足に思っております。私も油断なく戦いの準備をいたしますので、来月初めに佐和山を出発し、大坂へと向います。毛利輝元・宇喜多秀家そのほかは、無二の味方です。会津方面の作戦を承りたく思います。中納言様(景勝)にも手紙を送っています。しかるべき御意を得るようお願いする次第です。

 ゴシックの部分を見ればわかるとおり、家康を挑発して会津征討に向かわせるのは、以前から考えていた作戦であるというのだ。

■疑問の数々

 この書状について中村孝也氏は、この文書を疑わしいと指摘している(『徳川家康文書の研究 中巻』)。

 その理由として『続武者物語』が延宝八年(一六八〇)十月に成立した編纂物で、様々な所伝を年次不同で編集した書物で、内容は『武辺咄聞書』と大同小異であるという。

 この書状のあとに、(慶長5年)7月14日付三成書状(兼続宛)が収録され、越後口の撹乱作戦について述べているが、中村氏は信憑性の弱いものと評価している。

 同様に、今井林太郎氏も否定的な見解を示している(『石田三成』)。理由については、「書簡の用語に疑わしい点」があることから、後世の人の偽作であろうと考えている。

 たしかに原文にある「天ノ與ト」であるとか、「無二ノ味方」などの表現は、いささか違和感が残るところである。

 ただし、最近になって、三成が「天ノ與ト」という言葉を用いていることが明らかになった。

 事前盟約説を採用するのは、ほかにも『会津陣物語』がある。最近の研究によると、これは上杉氏が徳川氏に敵対行動を取った責任を直江兼続一人に押し付けようとして、筆者の杉原親清により創作された可能性が高いと指摘されている。

■景勝との交渉ルートを持たなかった三成

 それ以上に問題なのは、三成は景勝と直接の交渉ルートを持たず、真田昌幸を介して連絡を取っていたことだ。もし、家康を挟み撃ちにしようとするなら、間に人を介するようでは心もとない。

 さらにいうならば、同年7月の三成の挙兵後、景勝・兼続と三成が協力し、家康を討伐すべく積極的に軍事行動をした形跡が見られない。

 つまり、景勝・兼続と三成の事前盟約説というのは、史料的に十分な裏付けがないうえに、現実的にも不可能だったといわざるを得ないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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