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【戦国こぼれ話】徳川家康と石田三成は対立していなかった。三成が家康に反旗を翻した意外な理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成は、徳川家康の専横を阻もうとしたというが、それは事実なのだろうか。(提供:アフロ)

 9月15日は、天下分け目の関ヶ原合戦があった日だ。通説によると、徳川家康と石田三成が激しく対立していたので、それが合戦の原因になったというが、それは正しいのだろうか。

■豊臣秀吉没後の両者の関係

 豊臣秀吉が亡くなったのは、慶長3年(1598)8月のことである。翌年閏3月に大老の前田利家が亡くなると、石田三成は七将から訴訟を起こされ、徳川家康の仲介によって収まった。

 しかし、三成は佐和山(滋賀県彦根市)に逼塞を余儀なくされ、心の底から家康を憎んだという。それだけでなく、三成は家康の専横を阻もうとしたという。はたして、三成と家康の両者は、本当に互いを憎んでいたのだろうか。

■宿所を借りた家康

 慶長4年(1599)9月7日、重陽の節句で家康は秀頼に祝詞を述べるため、伏見から大坂へと向かった。家康から挨拶に向かったのは、たとえ豊臣秀頼が幼少とはいえ、形式的にでも政権を担っていたからである。

 家康が大坂に到着すると、宿所に定めたのは、なんと三成の邸宅だった。三成の大坂屋敷があったのは大坂城のすぐそばで、現在の大手前高校、大阪府庁の近くという便利な場所だった。

 同月12日、家康は三成の兄・正澄の邸宅に宿所を変えた。正澄の邸宅の場所は不明であるが、『鹿苑日録』には立地条件の良さを選んだ理由に挙げているので、大坂城の近くにあったと考えられる。

 その後、家康は大坂城西の丸に移動し、正澄邸に家臣の平岩親吉を入れ置いた。家康が大坂を訪れた際、三成・正澄兄弟は自らの邸宅を宿所として提供したのだから、仮に三成が家康と関係が悪いのなら、宿所を提供することはありえないはずである。

■前田氏征伐時の三成の対応

 その直後、前田利長らによる家康暗殺計画が発覚すると、家康は利長を討伐すべく、加賀に軍勢を送り込もうとした。三成は、どのように対応したのだろうか。

 同年9月21日付の島津惟新(義弘)書状(島津忠恒宛)によると(「旧記雑録後編三」)、大谷吉継の子・吉治と石田三成の内衆1千騎が越前方面に向かっていると書かれている。

 当時、吉継は越前敦賀を支配しており、近国加賀の戦闘に参加するのは当然のことだった。また、家康が三成に対して一定の信頼がなければ、三成の内衆を送り込むはずがないという指摘がある。

■三成の子の仕官

 同年閏三月、家康は三成の嫡男・重家を大坂城に迎え入れた(「浅野家文書」)。三成は失脚したので、代わりに重家の出仕が認められたのである。

 事情を知った輝元は叔父の元康に対して、「三成が佐和山へ引き退く一方、子の重家は秀頼に奉公するため大坂にやって来た」と報告している(「厚狭毛利家文書」)。

 『北野社家日記』には、三成が佐和山に引退して、重家に家督を譲ったと書いている。つまり、三成は引退後に重家を当主に据え、豊臣家に出仕させることで、石田家の存続を図ったのだ。

■家康が三成を排除しなかった理由

 家康が三成を完全に排除しなかったのには、もちろん理由がある。三成を厳しく処罰することは、諸大名への影響が大きかった。逆に、家康は三成と七将との仲介に入ったり、子の仕官を認めたり、三成に貸しを作ることのほうが今後のことを考えると得策だった。

 逆に、三成も家康に従うことによって、家の存続を図ることができた。将来的な政権への復帰も無きにしも非ずである。三成と家康の関係は悪化したどころか、持ちつ持たれつの良好な間柄だったといえるだろう。あくまで、それは政治的な戦略だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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