【戦国こぼれ話】戦国時代の戦争でもっとも重要だった小荷駄とは
タリバンがアフガニスタンで再び勢いを盛り返しているが、弱点は兵站にあるという。兵站といえば、戦国時代の戦争でも非常に重要だった。今回は、その兵站を担った小荷駄について考えてみよう。
■小荷駄とは
戦場で、実際に兵站(作戦軍の後方で軍需品の補給、輸送などにあたる)を担当したのは、小荷駄隊だった。小荷駄には兵糧そのものの意味もある。
しかし、一般的には戦場に兵糧、弾薬、設営道具などを運ぶ部隊のことを意味する。主に農村から徴発された農民が担ったとされている。
合戦ともなれば、戦う将兵の数が多かったのは自明のことであり、小荷駄という補給部隊がなければ戦えなかった。
まさしく「腹が減っては戦ができぬ」の言葉どおりである。なお、兵糧・武器などは、商人から買い入れて準備していた。
■小荷駄奉行の存在
甲斐の戦国大名・武田勝頼の軍陣条目には「小荷駄奉行」(小荷駄を指揮する奉行)の名称が見えるので、小荷駄の存在が重要視されていたのは明らかである(「正安寺文書」)。
小荷駄奉行に関しては、天正5年7月に発給された小田原北条氏の岩付(さいたま市岩槻区)諸奉行定書にも記録がある(「豊島宮城文書」)。
岩付の奉行としては、小籏奉行、槍奉行、鉄砲奉行、弓奉行、歩者奉行、馬上奉行、陣庭奉行、篝奉行そして小荷駄奉行が存在した。やはり、北条氏でも小荷駄は重要視されていたのだ。
小荷駄奉行は二番で編成されており、一番は春日、福嶋、立川の3人、二番は宮城、細谷、中の3人が担当した。それぞれが交代で勤務を命じられ、計画はすべて手札(書状)を取り交わすこととしている。間違いがないようするためだろう。
■非戦闘員だった小荷駄
ちなみに、小荷駄は軍列の最後尾に位置するのが原則だった。天正18年(1590)の小田原合戦の際、徳川家康は軍法を発した(「浅野家文書」)。
その条文のなかには、小荷駄が軍勢と混じることを禁止し、そうなった場合は当該者を処罰するとの規定がある。
おそらく小荷駄から抜け出して前方の軍勢に交じり、手柄を挙げようと考える者がいたのかもしれない。
この条文は抜け駆けを禁ずるとともに、小荷駄という職務専念に徹底させる規定であったといえよう。
当時、恩賞が欲しいがゆえに、抜け駆けをする者が後を絶たなかった。いずれにしても、抜け駆けは処罰の対象だった。
小荷駄に動員されたのは、陣夫(夫丸)という非戦闘員だった。戦国大名は陣夫役を領内に課し、農民から陣夫を徴用した。彼らは武器や食糧の輸送のほか、土木工事にも動員されたのである。
小荷駄は戦争における裏方だったかもしれないが、非常に重要な役割を担っていたことを再確認しておきたい。