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【戦国こぼれ話】戦国時代は蛇蝎のごとく嫌われていた牢人(浪人)の実像

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江戸時代の労には生活が厳しく、さまざまな内職をして糊口をしのいだ。(写真:アフロ)

 受験生にとっては、夏は非常に大切な時期で、浪人にならないようがんばっているはずだ。ところで、戦国時代の牢人(浪人)は、蛇蝎のごとく嫌われていたのはご存じだろうか。

 なお、「浪人」という言葉は江戸時代中期以降に用いられたので、本稿では「牢人」(主家を去るか失って俸禄を失った者の意)を使用することとしたい。

■羽柴(豊臣)秀吉の牢人対策

 天正11年(1583)6月、羽柴(豊臣)秀吉は京都奉行の前田玄以に指示し、七ヶ条の掟を制定した(『京都町触集成』)。そのうち、牢人に関わる条文を挙げると、次のようになる。

洛中洛外の諸牢人のうち、秀吉が把握していない者については、居住を許可しないこと。

 一言でいうならば、牢人は洛中洛外からの退去を求められたのである。同時に、この七ヶ条は奉公人の非分・狼藉を禁止しており、原則として武士身分にある者が規制を受けることになった。

■京都奉行の役割など

 その職務を託されたのが、京都奉行職である。文禄5年(1596)、下京を管轄していた京都奉行・石田三成は、奉公人が町人に非分・狼藉を行うことを禁止し、従わない場合は処罰する旨を伝えた(『京都町触集成』)。つまり、現実問題として、奉公人による濫妨・狼藉が行われていたと考えられる。

 こうした秀吉の奉公人、牢人対策は、町が定める掟の内容にも反映された。天正16年(1588)、冷泉町では奉公人に家を売却した場合、売った者に罰金を科すことを決定した(『京都町式目集成』)。

 また、文禄4年(1595)には下本能寺町で、翌年には鶏鉾町で、それぞれ家を武士(奉公人)に売却することを禁止している(『京都町式目集成』)。

 一連の決まりにより、町をあげて奉公人の町内居住を拒否したことになる。こうした町の自衛的な対応によって、町からの奉公人の一掃が図られたのであった。

■関ヶ原合戦以降の牢人対策

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降、京都の支配は京都所司代である板倉勝重が担った。そして、秀吉以来の奉公人、牢人対策も引き続き行われた。

 慶長8年(1603)8月、冷泉町では勝重の命を受けて奉公人の宿を禁止し、同年12月にはその手続きを定めている(『京都町触集成』)。

 具体的には、奉公人が借家をする場合は、勝重の宿切手を必要とするというものであった。つまり、奉公人の借家・居住については、一種の許可制を採用したのである。

 こうして一時的に奉公人が京都に滞在するときは、京都所司代が把握・管理することになった。武士を排除したいという町側の意向と、奉公人・牢人対策を進めたい京都所司代との思惑が一致したのである。

 このように見るならば、牢人の京都滞在は極めて困難であった状況がうかがえる。関ヶ原合戦後、長宗我部盛親ら牢人は京都に滞在していたが、宿切手を得ていたという確証はない。おそらく何らかの方法によって、京都滞在の許可を得ていたものと考えられる。

 盛親のような大名クラスの牢人は、必然的に監視の対象になったであろう。彼らの仕官活動は、こうした状況も相俟って、非常に厳しいものであったと推測される。

 それにしても、例年にない猛暑。受験生諸君には、猛暑を乗り切ってがんばってほしい!

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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