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【戦国こぼれ話】「さらさら越え」で知られる佐々成政は、治水事業で名君として知られていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今も残る佐々堤は、佐々成政が命じて作らせたものだった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 現在、毎年のように台風が日本列島を襲い、河川の氾濫などで、甚大な被害をもたらしている。ところで、「さらさら越え」で知られる佐々成政は、治水事業で名君として知られていた。その点を考えることにしよう。

■佐々成政と越中

 天文5年(1536)、佐々成政は誕生した。やがて織田信長に仕え、その死後は羽柴(豊臣)秀吉と対立したが、のちに従属するに至った。

 信長在世中の天正8年(1580)、成政は越中の支配に携わった。その成政が得意としたのが、治水工事だったといわれている。

 なお、タイトルの「さらさら越え」とは、越中と信濃をつなぐ抜け道の針ノ木峠を越えるルートのことである。

 天正12年(1584)、成政がこの峠を越えて遠江浜松の家康のもとに行き、面会したとされる(ただし疑義が提示されている)。

■常願寺川の由来

 同年秋頃、成政は常願寺川に佐々堤を整備したといわれている。常願寺川は、現在の富山県立山町から富山市内を流れ、富山湾に注ぎ込む河川である。

 現在、常願寺川は、一級河川として管理されている。当初、常願寺川は、郡名の新川郡の由来となる新川と呼ばれていた。ほかにも、さまざまな名称で呼ばれていたという。

 常願寺川は、古くから暴れ川として知られ、洪水が頻繁にあった。常願寺川の名称は、下流にある常願寺村、立山にあった寺院の常願寺、上流にあった常願野岩にちなんで名付けられたと伝わるが、いずれが正しいのか不明である。

 あるいは、住民が氾濫がないように「常に願う」という意味が込められたともいわれている。こちらは真偽は不明で、単なるこじつけのようにも思える。

■富山城下の水害

 成政が越中に来た年の秋の頃、富山城下で思いがけず水害が起こった。連日の豪雨によって、神通川、常願寺川が氾濫したのである。

 これにより富山城は浸水し、多数の家屋が流されたほか、多くの人馬が溺れ死んだという。この水害は、甚大な被害をもたらしたのである。

■佐々堤とは

 当時、富山城主だった成政は、自ら陣頭指揮を執り、河川の整備に取り組んだ、このとき作られたのが、佐々堤である。この工事では、馬瀬口と常願寺川扇状地の扇頂部に石堤を築いた。

 これは霞堤という凹凸の不連続堤防といわれており、大変高度な技術を使っていた。当時としては、画期的な規模と強度を誇っていたと指摘されている。

 堤の底幅は約45m、高さ約11m、長さ約150mと考えられている。現在ではその全貌を窺い知ることは難しいが、常西合口用水路の川底に天端(堤防の一番高い部分)を確認できる。

 これにより地元の富山では、成政が名君であると称えられている。

 なお、成政は赴任先の肥後で、国人一揆の鎮圧に失敗。天正16年(1588)閏5月に秀吉から切腹を申し付けられ、尼崎(兵庫県尼崎市)で自害したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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