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【戦国こぼれ話】賤ヶ岳の戦いで、なぜ柴田勝家は羽柴(豊臣)秀吉に負けたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
賤ケ岳登山道。羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家も通ったのだろうか。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 長浜観光協会(滋賀県長浜市)が羽柴(豊臣)秀吉の「賤ヶ岳砦」と柴田勝家の「玄蕃尾城」の「御城印」を販売した。舞台となった賤ヶ岳の戦いでは、勝家が無念にも敗北したが、なぜ負けたのだろうか。

■運命の本能寺の変

 天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉は備中高松城(岡山市北区)から猛スピードで引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を打ち倒した。

 それだけではない。直後に開かれた清須会議において、秀吉は信長の孫・三法師(のちの秀信)を後継者に据え、自ら信長の葬儀を執り行っている。秀吉は織田家中の中枢に食い込んだのだ。

 一連の行動に面白くなかったのが、信長の重臣・柴田勝家である。勝家は、同じく信長の重臣・滝川一益とともに秀吉に対抗しようとした。

■思惑が外れた勝家

 同年の冬、秀吉は越前の勝家が雪で動けないことをよいことに、美濃・近江を制圧して反対勢力の織田信孝(信長の3男)を封じ込むと、北伊勢の一益を攻撃した。勝家にとって、天候はどうしようもないことだった。

 翌天正11年(1583)になると、勝家は一益を支援すべく立ち上がった。このとき勝家に与したのが、加賀の佐久間盛政と能登の前田利家という面々たちであった。

 しかし、この力強い味方のはずの2人が、勝家を敗勢に追い込むことになる。盛政は、秀吉方の桑山重晴に降伏を勧告したので、そうなるだろうと考えていた。

 ところが、丹羽長秀が重晴の援軍として駆けつけたため、盛政は敵中で孤立してしまった。盛政の思惑は、まったく当てが外れたのである。結局、盛政は秀吉に生け捕りにされてしまった。

 前田利家にいたっては、合戦中に秀吉軍に転じる有様であった。こうして敗勢濃くなった勝家は、同年3月に越前北庄城(福井市)で妻のお市と自害して果てたのである。

 勝家は冬の豪雪という天候に加え、自らが描いたシナリオどおりにことが運ばなかった。誤算の連続だったのだ。これこそが、勝家が秀吉に敗れた理由だったのである。

■賤ヶ岳の七本槍の異説

 なお、賤ヶ岳の戦いで活躍した秀吉子飼いの武将は、「賤ヶ岳の七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)」といわれている。

 しかし、これには「賤ヶ岳の九本槍」という異説があり、先の面々に石河兵助と桜井佐吉が加わる。ただし、根拠は明確でなく、一般には広く浸透していない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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