【戦国こぼれ話】「大うつけ」とバカにされた織田信長。舅の斉藤道三が見直した理由とは
東京オリンピックで日本の卓球団体が銅メダルを獲得したが、一員の張本智和選手は織田信長が好きだという。ところで、信長は「うつけ」と称されていたが、実際はどんな男だったのだろうか。
■織田家と斎藤家
斉藤道三は織田家と交誼を結ぶため、織田信長の許に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせていた。信長と帰蝶が結婚した時期は諸説あるが、おおむね天文18年(1549)頃と考えられる。
当時、信長は「尾張の大うつけ」と噂されていたので、道三は聟の信長に興味津々で、ぜひ面会したいと考えた。その噂が事実であるかどうか、確かめるためでもあった。
斉藤家と織田家で日程を調整した結果、会見の場所は美濃と尾張の国境の木曽川沿いにあった聖徳寺(愛知県一宮市)に決定した。天文22年(1553)のことである。
■道三と信長の面会
2人の面会の様子は、信長の一代記『信長公記』に詳しく記されている。以下、その状況を再現することにしよう。
道三は信長よりも早く聖徳寺に到着すると、寺近くの町屋に潜んで信長の来るのを待っていた。日頃の噂が本当なのか、じっくりと観察するためである。
やがて、道三の前に登場した信長の姿は、腰に荒縄を幾重にも巻き片肌を脱いでおり、輿に火打石や瓢箪などをぶら下げ、馬に横乗りするという異様なものであった。まさしく噂通りである。
■驚愕した道三
一方、道三が驚愕したのは、信長の引き連れた槍隊・弓隊・鉄砲隊の見事さであった。彼らの装備は、道三の家来よりもはるかに勝っていたのである。
さらに、会見に臨んだ信長の立ち振る舞いは立派なもので、あまりの落差に道三を大いに驚かせた。しかも服装は先述のようなだらしないものではなく、すっかり見事な正装に着替えていた。
家来の一人(猪子兵介)が帰途に着いた道三に対して、「信長は噂どおりの<大うつけ>である」と言った。しかし、道三は「やがて子孫は信長の家臣になるだろう」と冷静に指摘し、信長の非凡さを見抜いたのである。
■道三の最期
この会見によって、2人の関係はますます緊密になったという。しかし、弘治2年(1556)、道三は実子の義龍と対立し、戦うことになった(長良川の戦い)。
形勢不利で死を覚悟した道三は、戦死の前日に遺言状を残した。その内容は「信長に美濃国を譲る」という衝撃的なものであった。
むろん、このときは実現しなかったが、のちに信長は斎藤氏を攻め滅ぼし、実力で美濃国を配下に収めたのである。道三は聖徳寺の面会で、信長と斉藤家の将来を予見していたのかもしれない。