選挙が近くなると、高齢議員が引退を表明し、我が子に選挙を託すことがある。世襲だ。関ヶ原合戦の際、徳川家康は健在だったが、精鋭部隊を後継者になる子の秀忠に預けたという。それは、事実なのだろうか。

 関ヶ原合戦における東軍の主役は、いうまでもなく徳川家康であった。慶長5年(1600)7月25日に「小山評定」を終えた家康は、8月には3万数千の軍勢を率いて西上の途についた。

 一方、子の秀忠も3万数千の軍勢を率いて、8月24日に宇都宮(栃木県宇都宮市)を出発し、中山道を通って西上の途についた。秀忠軍は真田氏が籠る上田城(長野県上田市)を血祭りにあげてから、西上する計画だった。

 家康軍・秀忠軍ともに軍勢はほぼ同数であり、ごく常識的に考えるならば、大将の家康の率いる部隊のほうが精鋭と考えるのが自然である。

 ところが、笠谷和比古氏によると、実際はそうではなく、秀忠の率いた軍勢のほうが精鋭であったと指摘する(『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』講談社学術文庫)。

 では、なぜ秀忠の率いる軍勢が精鋭だったのであろうか。以下、笠谷氏の研究に基づき、考えることにしよう。

 笠谷氏によると、当時の軍隊は「備」を基本単位として構成されていたという。一つの「備」では、旗頭、侍大将を中心とし、騎馬士、鑓部隊の徒士、足軽の鉄砲・弓の部隊で構成されており、それが戦いにおける基本的な単位となっていた。おおむね戦闘の手順は、次のとおりである。

①足軽鉄砲部隊が敵陣に一斉射撃をして撹乱する。

②鑓部隊が敵陣に突撃する。

③騎馬部隊が敵陣に進撃する。

 「備」は総大将の構える旗本備を中心に、それを囲むようにして、先鋒・先手備、中備、脇備、後備・殿備と配置された。戦いを行うのは、主に先鋒・先手備の役割であった。

 そのほかの「備」は、総大将の本陣や旗本備の防御、または先に攻撃をした味方の後詰や第二波攻撃を任務とした。旗本備は本陣と総大将の守備を任務とし、攻撃は本来の目的としなかったという。

 つまり、笠谷氏は、家康・秀忠の率いる軍勢の戦力は、単に兵の数で決定するのではなく、あくまで質によって左右されると指摘する。端的にいえば、攻撃に適した先手備が厚く、充実しているかがポイントになるのである。

 したがって、1万石以上の武将であれば、独立した「備」の構成が可能である。それゆえ、1万石以上の武将をどれだけ率いているかがカギとなるのだ。

 改めて家康・秀忠両軍の軍勢を比較すると、兵数そのものは先述のとおり、ともに3万数千とほとんど変わりはない。

 ところが、秀忠の率いる軍勢は、直属の旗本備のほかに十余人もの一万石以上の武将を抱え、独立した「備」を構成し得る本格的な軍団を編制していた。

 一方の家康は、いかなる状況にあったのか。実は、家康自身が語っているように、その軍勢は「旗本の侍共ばかり」であったという(『岩淵夜話』)。

 つまり、家康の率いる直属の軍勢は、1万石以上の武将を欠き、防御的な性格を持つ寄せ集めに過ぎなかったと笠谷氏は述べる。

 したがって、秀忠の率いた軍勢は、精鋭ということになろう。

 この見解に対しては、桐野作人氏による批判が提示されている(『真説 関ヶ原合戦』学研M文庫)。それは、以下のとおりである。

①家康・秀忠の軍勢は、会津征伐のために前軍・後軍に編制されていること。

②それゆえ任務や役割が異なっていること。

③陣立構成としては一体かつ不可分の関係にあったこと。

 結論としては、家康・秀忠の軍団の量的・質的な優劣を論じることは、さほど意味がないと指摘する。

 非常な難問であるが、ともに戦って負けることは本意ではなかっただろうから、軍勢が拮抗している点を考慮しても、どちらが精鋭かを論じることは、いかがなものかと思うところだ。