NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で女優復帰した鈴木保奈美さんが離婚するという。誠に残念。ところで、戦国の女性は豊かな教養があり、特に和歌に優れていた。その実像を紹介しよう。

 平安時代に女流歌人が活躍したことは、周知の事実である。戦国時代にあっても、和歌や連歌に嗜みがあることは、教養のひとつとして重要視された。

■播磨赤松氏の女性と和歌

 16世紀初頭、播磨国守護赤松義村は、著名な歌人として知られる冷泉為広を居城である置塩城(兵庫県姫路市)に招いた。為広は将軍足利義澄から「和歌の師範」として認定され、歌集として『為広卿詠草』が有名である。為広は赤松氏以外にも、能登国畠山氏のところにも下向していたことが知られている。

 義村の乳母は、為広に和歌一首の書写を熱心に懇望した。一般的に公家は能筆家が多かったので、美しい文字で記された和歌を手に入れたかったのであろう。為広は「老眼を顧みず」書写したとある。

 また、為広は義村に対し、要望に応じて藤原定家の歌集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』や和歌の短冊や手本を書写している。こうしたものは、義村の妻女も読むことがあったに違いない。

 このように都から遠い地にあっても、女性たちは和歌や連歌を学び、和歌の短冊を所望した。そのように考えると、少なからず戦国女性の間で和歌や連歌に対する熱い思い入れがあり、教養として身に付けるべきものであったことがうかがえる。

■淀殿と和歌

 慶長3年(1598)3月、豊臣秀吉の主催によって、醍醐(京都市伏見区)の花見が執り行われた。このとき、大名衆はもちろんのことであるが、秀吉の妻妾、侍女も花見の際の和歌を短冊として残した。これらの短冊は醍醐寺三宝院に所蔵され、国宝に指定されている。

 この中には、淀殿の和歌も「あひおひの 松も桜も 八千世へん 君がみゆきの けふのはじめに」、「はなもまた 君のためにと さきいでて 世にならひなき 春にあふらし」という2首が残されている。

 この2首には「にしの丸」との押紙が付されているが、この人物が淀殿であり、自筆でなく代筆であることが指摘されている。この他にも、秀吉の側室松の丸殿の和歌も残されている。

 このように戦国であるとはいえ、和歌の会が催されることがあり、女性たちも参加を求められた。上手・下手があったかもしれないが、一定の水準を保つ必要はあったであろう。

■戦国女性と和歌

 また、武蔵国忍城(埼玉県行田市)主成田氏長の妻のように、和歌に傾倒していた事例もある。氏長の妻が危篤になったとき、妻が望んだのは立派な追善供養でなく、和歌を愛好する者を招いた追善の歌会であった。氏長は妻の遺言を受け入れ、和歌を嗜むものを招き、3日間歌会を催したといわれている。

 そして、戦国時代では城が落城して運命を共にする際、あるいは戦いに敗れて切腹する際に、辞世の歌が詠まれた。これは、男性に限らず女性も同様であった。

 天正8年(1580)、秀吉の兵粮攻めに屈した播磨国三木城(兵庫県三木市)主別所長治は、一族の死と引き換えに、城兵の助命を願った。秀吉はその要望を受け入れ、別所一族の切腹を命じている(『信長公記』など)。

 このとき、別所長治の妻、以下一族の別所友之の妻、別所賀相の妻が「もろともに (消)はつる身こそは うれしけれ をくれ先だつ ならひなるよに」という辞世の歌を残している。

 夫婦どちらが先に亡くなるかわからない中で、夫とともに死ねることはうれしいことである、という意味である。武将の妻としての覚悟がうかがえるものである。このように、立派な辞世の歌を残すことも、戦国女性にとって必要なことであった。

 浅井三姉妹の母であるお市の方も、再婚相手柴田勝家と北庄城(福井市)で運命を共にする際に、「さらぬだに 打ぬるほ程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな(お市の方)」、「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(柴田勝家)」という辞世の歌を残している(『柴田合戦記』)。この2首は見事に対応しており、死に臨んでも2人の凛とした態度をうかがうことができる。

 むろん辞世の歌を残すために和歌を学ぶわけではないが、非常事態にあっても、戦国女性は冷静に対応することが求められた。落城の際も慌てることなく、心静かに歌を読むことも、武将の妻としての心掛けと日頃の教養に裏打ちされたものなのである。