【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦前夜。なぜ浅野長政・大野治長・土方雄久は流罪になったのか
福岡市博物館で、徳川家康が関ヶ原合戦で身に着けた甲冑などが展示されるという。ところで、関ヶ原合戦前夜、浅野長政・大野治長・土方雄久は徳川家康から流罪の処分を受けた。その理由を考えてみよう。
■豊臣秀吉死後の状況
慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなると、代わりに実権を掌握したのが五大老のひとり徳川家康であった。秀吉の死の直後、家康は執務を行うべく、大坂城に入城した。
その際、五奉行の増田長盛と長束正家から、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康暗殺計画を企てていると家康に報告した。家康は自分が暗殺されるなど、まったく身に覚えがないことだった。
このうち利長は謝罪したので、母の芳春院を江戸に送るなどし、何とか罪を逃れることができた。ほかはすべて流罪となった。以下、『関ヶ原軍記大成』などによって、事件の経過をたどることにしよう。
■徳川家康暗殺計画
慶長4年(1599)9月12日、家康は伏見城(京都市伏見区)に戻ってきた。このとき家康暗殺を企んだのが、浅野長政、大野治長、土方雄久の3人である。暗殺の話を持ち掛けたのは、長政だった。
3人の作戦は大坂城の千畳敷の廊下において、雄久が家康に一の太刀を浴びせ、治長が二の太刀で止めを刺すというものである。ただ、方法があまりに単純なので、これで成功するのか非常に気にはなる。
ところが、大変お粗末なことに、暗殺計画は前日に家康に露見していた。結局、長政は病と称して、ついに出仕をしなかった。
治長と雄久の2人は本懐を遂げるべく隙を狙ったが、家康の周りは家臣が厳重に警護しており、ついに暗殺計画は失敗に終わったというのである。
一説によると、前田利長・利政が雄久を招き寄せ、家康が大坂に下向した際、治長とともに暗殺することを持ち掛けたという。とはいえ、真相は闇の中である。
■関係者の処分
家康は彼らの処分について、股肱の臣である本多正信に相談を持ち掛けた。正信は、「前田利家が亡くなってから1年も経たないうちに厳しい処分を科すのはいかがか」と意見を述べ、家康に寛大な処分を求めた。
家康は、正信の意見に同意したという。そこで、本来ならば死罪とすべきところであるが、流罪という措置を講じることにした。当時、流罪は死罪に次ぐ重罪だった。
治長は下野国に流すことにし、結城氏がこれを受け取った。雄久は常陸国に流すことにし、佐竹氏がこれを受け取った。それぞれの大名が2人を預かったのだ。
治長は同年10月2日に配所に向かい、雄久は翌10月3日に配所に赴いた。2人は、結城、佐竹の両大名の監視下に置かれたのである。
一方、長政は増田、長束の両氏に対して、領知(甲斐)を返上し、子の幸長の庇護下に入ることを申し出た。しかし、領知を没収するほどの罪ではないとし、10月5日に甲斐へ向かったが、家康の配慮により武蔵府中(東京都府中市)に籠居することになった。
配慮とは言っても、家康の目の届くところに置いただけである。ほかにもさまざまな二次史料にことの経緯は記されているが、一次史料による記述は見られない。
■許された3人
結局、3人は翌年になって許された。そして、今までとは180度も態度を変え、家康を暗殺するどころか、関ヶ原合戦では東軍に属して戦ったのだ。
暗殺未遂事件の詳細は不明であるが、家康の命を狙ったにしては、あまりに寛大な措置である。ただ、前田利長を含め、自らの手により死罪を科すことは、今後の政局に少なからず影響があると考えたのかもしれない。本多正信の助言のとおりである。
そうなると死罪の次に重い流罪になるが、大名に預けることにより監視を強めた。こうして家康は、彼らを自らに従わせるよう、仕向けたのかもしれない。そして、家康の目論見は実現したのである。