【戦国こぼれ話】戦国時代に発展した博多の町は、世界的に誇るべき商業都市だった
コロナの影響により、2年連続で博多祇園山笠でかき山が延期になるという。戦国期において、博多(福岡市博多区)は商業として大いに栄えた。その経緯を確認することにしよう。
■古代から栄えた博多
博多(福岡市博多区)は古くから、東アジアへの日本の窓口だった。
古代には大宰府(福岡県太宰府市)の外港である大宰博多津として繁栄し、中国へ向かう遣隋使、遣唐使もここから出発していた。博多は中国や朝鮮に近く、海外へ通じる都市として栄えたのである。
しかし、平安・鎌倉時代に至ると、刀伊、蒙古の来襲を受け、博多に鎮西探題が置かれた。大宰府に代わって、博多は九州における内政・外交の中心となったのである。
■貿易の拠点として
15世紀に至ると、大内氏が九州北部に進出し、対明貿易を積極的に推進した。そのため、博多は、貿易・商業地として発達し、日本三津(ほかは堺・安濃津)の一つに数えられるようになった。
博多では博多商人が活躍の舞台を広げ、堺(大阪府堺市)と並んで自治権を有していた。つまり、自治都市として発展を遂げたのである。
博多商人は貿易都市・博多の繁栄を基礎にして、さらに自治的団結を固めるようになった。室町末期に至ると、12人の行司が市政を運営することになった。
ところで、博多商人とは、中世・近世に筑前博多の町を本拠にした商人たちである。室町時代以降、明との勘合貿易などで博多が栄えると、商人は重要な地位を占めるようになった。
■活躍した博多商人
博多商人は14世紀末から15世紀初頭ころから明・朝鮮と盛んに取引し、足利義満が明に国書を送った際、派遣された「肥富」(こいつみ:読み方は諸説あり)などのように、将軍や大名の使者となり渡航した。
石見銀山(島根県大田市)の開発・経営にも関係した神屋氏や豪商「宗金」の一家などは、博多に関わった代表な商人といえよう。こうして石見の銀は、世界を駆け巡ったのである。
■織豊時代以後の発展
織豊時代から江戸時代になると、徐々に博多の自治が制限されるようになった。天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州入りすると、方十町の町割(太閤町割)による博多の復興が行われた。
現在の博多地区は秀吉による都市整備によって、この頃に完成した。そして、商人の町として、再び発展をはじめたのである。
慶長6年(1601)に黒田氏が博多に入部すると、城下町が整備されるようになった。やがて博多商人は城下町商人としての性格を強めるようになる。