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【戦国こぼれ話】「戦国最弱」の小田氏治も戦い、初めて鉄砲が使われた手這坂の合戦はなぜ起こったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「越後の虎」上杉謙信も小田氏治を攻撃した。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 小田氏治は「戦国最弱」の大名として、今も高い人気があるそうだ。ところで、氏治が関係した戦いとしては、鉄砲が使われた手這坂(てばいざか)の合戦がある。手這坂の合戦は、なぜ起こったのだろうか。

■合戦の原因

 小田氏は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族で、関東八屋形(宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家)の一つとして有名である。小田氏治は、小田城(茨城県つくば市)を本拠としていた。

 16世紀の半ば以降、常陸国太田城(茨城県常陸太田市)主の佐竹義重は、常陸国南部へ侵攻することを計画していた。

 その間、常陸国小田城主・小田氏治は自らの領土を失うなどの理由により、常陸国を含む北関東進出を目指す北条氏に与した。当然、佐竹氏と北条氏の利害は一致しなかった。

 そのような事情から、佐竹氏と小田氏との関係は徐々に悪化し、深刻なまでに対立することになった。

■上杉謙信の小田氏討伐

 永禄9年(1566)2月、越後の上杉謙信が小田氏の討伐に乗り出すと、義重もそれに呼応した。当時の謙信は、関東進出を目論んでいた。

 佐竹氏の客将だった梶原政景父子と太田資正は、常陸国片野城・柿岡城(以上、茨城県石岡市)を与えられ、両城を拠点として小田氏討伐に動いたのである。

 永禄12年(1569)1月、佐竹勢は小田方の海老島城(茨城県筑西市)で乱妨狼藉を行うと、同城を守る平塚刑部大輔はあっけなく降参してしまった。勢いに乗った佐竹勢は、すぐさま氏治の籠もる小田城を取り囲んだ。

 そして、佐竹勢は小田領内の村々の農民の家に押し入って家財を強奪しするなどし、さらに村々に放火も行ったのだ。乱暴狼藉の限りを尽くしたのである。

 その後、佐竹勢は小田城下に侵攻して刈田(生育中の作物を刈り取ること)を行うなどの作戦が功を奏し、結局、小田城は佐竹氏に接収されたのである。「小田仕置」の結果、太田資正が小田城を守ることになった(のちに梶原政景に交代)。

■小田氏の逆襲

 ところが、小田氏は、ただ黙ってみているわけではなかった。同年10月、氏治は事態を好転させるため、約3千の軍勢を率いて筑波山東麓の手這坂(茨城県石岡市)に出陣した。攻撃目標は、佐竹勢の片野・柿岡の両城である。

 受けて立つ太田勢は、わずか6百の兵しかおらず、まさしく決死の覚悟で戦いに臨んだ。その際、太田勢に手を差し伸べたのが真壁城(茨城県桜川市)主の真壁氏幹であった。両者は協力して、手這坂の小田勢を迎え撃つことになった。

 このとき太田勢は、30挺ほどの鉄砲を用いた。常陸国内の合戦で、鉄砲が使われた初めてのケースであるといわれている。

 鉄砲の威力に驚いた小田勢は、続く真壁勢の攻撃を受けて敗走した。しかも、すでに梶原政景が小田城を攻略していたため、小田勢は小田城に戻れず、支城の常陸国土浦城(茨城県土浦市)に逃げ込んだ。こうして、小田氏の逆襲は失敗したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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