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【戦国こぼれ話】戦国時代もし烈だった。牢人(浪人)となった戦国武将の就職活動

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今も昔も就職戦線は厳しかった。(写真:アフロ)

 大学生の最大の関心事と言えば、就職活動だろう。就職活動は現在だけでなく、戦国時代もし烈だった。今回は、牢人(浪人)となった戦国武将の就職活動を取り上げることにしよう。

■仙石豊前(秀範)の就職活動

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦によって、大量の牢人(おおむね近世より前は「浪人」はなく、「牢人」を用いる)が発生した。ここでは、牢人となった戦国武将の就職活動を見てみよう。

 慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣で豊臣方に与した人物として、仙石豊前(秀範)がいる。秀範は仙石秀久の次男であった。父の秀久は東軍に属し、徳川秀忠の軍勢に加わったが、秀範は西軍に与した。

 慶長5年(1600)9月、秀忠は上田城(長野県上田市)で真田昌幸に食い止められて遅参したが、秀久は家康にうまく弁明を行った。そのこともあって、のちに秀久は秀忠から但馬出石(兵庫県豊岡市)に5万8千石を与えられた。

 ところが、子の秀範は西軍に与したため、関ヶ原合戦以後は牢人にならざるを得なかった。仙石家の家督は、秀範の代わりに弟の忠政が跡を継ぐことになった。

 『大坂御陣山口休庵咄』によると、牢人生活を送る秀範は、現在の京都市中京区付近で私塾を開業して糊口を凌いでいたと記されている。つまり、大坂の陣まで仕官できなかったのである。なお、秀範は大坂の陣で豊臣方に味方して敗北した。

■氏家行広の就職活動

 大名クラスの地位にあった者としては、氏家行広がいる。行広は、美濃斎藤氏の配下にあった西美濃三人衆の一人・氏家卜全(ぼくぜん)の子として誕生した。斎藤氏滅亡後は織田氏に仕え、のちに秀吉の配下となった。

 行広は天正18年(1590)の小田原北条氏との戦いで軍功を挙げ、伊勢桑名(三重県桑名市)に2万2千石を与えられた。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に与して敗北すると、以後牢人となって西国を放浪したという。

 大坂の陣に際して、行広は家康から10万石で迎えるとの申し出を受けたが、それを断って豊臣方についたという話がある。結局、行広は豊臣方に味方して敗北した。

■塙直之の就職活動

 塙直之の場合も、慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣で豊臣方に味方した。もともと直之は織田信長に仕えたが、次いで豊臣秀吉の部将である加藤嘉明に召し抱えられた。

 以後、直之は頭角をあらわすと、やがて鉄砲大将に抜擢され、知行1000石を与えられた。朝鮮出兵でも、水軍を率いて敵軍をたびたび撃破し活躍した。

 しかし、直之は功を焦ったのか、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で一人で鎗を持って突撃するという軍令違反を犯した(抜け駆け)。この軍令違反をめぐって直之と嘉明との間に確執が生じ、それが原因で直之は加藤家を去った。

 牢人になった直之は、小早川秀秋、松平忠吉に仕えた。しかし、両家とも中途で改易されるという不幸に見舞われた。そして、ようやく福島正則に仕えたが、旧主である嘉明の奉公構(ほうこうがまえ:仕官を妨害すること)によって職を失った。

 のちに出家して、京都妙心寺(京都市右京区)に入り法名を鉄牛と号した。そして、慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣に際して、直之は豊臣方へ加わり入城したが、最後は敗北したのである。

 このように牢人たちの就職活動は、実に多様であったということができる。一度、牢人に身を落とすと復帰は困難で、挽回するのが難しいのは、今と同じかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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