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【戦国こぼれ話】宇喜多秀家の検地は、家中を崩壊させるほどの過酷なものだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
傷つけられた岡山城。かつては宇喜多氏の居城だった。(写真:beauty_box/イメージマート)

 かつて宇喜多氏の居城だった岡山城が傷つけられるという、許し難い事件があった。ところで、宇喜多秀家が急速に力を失ったのは、過酷な検地が原因と言われているが、それは事実なのだろうか。

■宇喜多騒動の原因の一つだった検地

 慶長4年(1599)末から翌年にかけて勃発した宇喜多騒動によって、重臣たちは宇喜多家中から去った。これにより宇喜多氏は弱体化が進んだというが、騒動の原因は必ずしも明らかになっていない。

 法華宗を信奉する家臣とキリスト教を信仰する家臣の対立が原因という説もあったが、現時点では否定されており、問題は振り出しに戻ったといえよう

 そのほかの騒動に関する有力な説としては、宇喜多氏による徹底した検地(年貢の徴収と農民支配を目的に行った土地の測量調査)による年貢の徴収などが原因として指摘されている。

 文禄・慶長の役により、宇喜多氏は軍費などを捻出すべく徹底して検地を行った。その結果、年貢は増収となったものの、かえって軍役(派遣する軍勢の数など)の負担も増えたうえに、百姓の不満が高まったのが原因と考えられる。

 軍役の負担が増えたのは、検地により領国の総石高が増えたからである。この説については、近世に成立した編纂物にも記されている。

■重い負担に音を上げた家臣たち

 家臣は、検地による多大な軍役負担に音を上げた。年貢の重い負担に耐えかねた百姓は、土地を捨て逃亡し、両者ともに強い不満を抱いた。その不満は、当主の宇喜多秀家だけなく重臣にも向けられた。

 彼らの不満が大爆発した結果が、宇喜多騒動の要因だったということになろう。当時、文禄・慶長の役に伴って、徹底した検地と年貢の厳しい徴収は各地で行われ、諸大名は似たような問題を抱えていた。

 戸川達安ら家臣らには、文禄・慶長の役に伴って著しく加増がなされた。加増された理由は、文禄・慶長の役で死亡した者の土地を給与されたからとも考えられるが、単にそれだけではないであろう。

 慶長3年(1598)、秀家は達安に対して美作国山内・高田(岡山県真庭市)近辺に5千石を与え、百姓の撫育、田畑の整備、荒地の開墾を命じ、3年間の軍役(軍事上の役務)を半分にすることを伝えた。つまり、こうした政策を採用することにより、将来徴収すべき年貢を確保する目的があったのである。

■自立していた宇喜多氏家臣団

 宇喜多氏の家臣団は自立した領主層によって構成され、その連合体的な意味合いが強い。大身の家臣は城持ちの領主だったが、末端の家臣は未だ中世的な土豪的な要素が色濃く、兵農未分離の状態だった。

 土地に根付いていた中小領主は、検地による年貢の増徴や軍役負担を避けたいと考えていたのは間違いない。そうでなければ、百姓の不満が高まり逃亡するなどし、破綻するのが目に見えているからである。そうした考えは中小領主を束ねる、戸川氏ら重臣も同意見だったのかもしれない。

 秀家や秀家を支える新参家臣の中村氏らは、文禄・慶長の役を控えて徹底して検地を行い、年貢の増長や軍役負担を増やそうとする推進派だった。一方の戸川氏ら譜代の重臣は中小領主層の代弁者で、そうした政策を抑え込もうとしていたという。

 つまり、検地の実施をめぐっては、宇喜多氏や秀家を支える新参家臣の中村氏らと、戸川氏らの譜代の重臣層の対立があったことも騒動の大きな要因の一つと考えてよいだろう。

 こうして家中が弱体した状況で関ヶ原合戦に臨んだ宇喜多氏は、満足に戦うこともなく、あっけなく敗北を喫した。家中が崩壊していたのだから、必然的な結果だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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