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【戦国こぼれ話】小西行長はなぜ、同じ肥後の戦国大名・加藤清正と犬猿の仲だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小西行長は、熱心なキリスト教徒だった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 小西行長が築いたという「陣ノ内城跡」(熊本県甲佐町)が国史跡に指定されるという。ところで、行長は同じ肥後の加藤清正と犬猿の仲だったという。その理由がいかなる点にあったのかを探ることにしよう。

■宗教的な対立だけが要因ではない

 周知のとおり、小西行長と加藤清正との関係は必ずしも良かったわけではない。行長はキリシタンで、清正は熱烈な法華宗の信者だった。これが両者の対立の要因とされているが、決して原因はそれだけではないだろう。話は文禄・慶長の役にさかのぼる。

 行長は先導役の宗義智(よしとし)とともに、諸将を率いて朝鮮半島に上陸した。文禄元年(1592)9月、清正は注進状を肥前名護屋(佐賀県唐津市)の馬廻衆の組頭だった木下吉隆に送った(「尊経閣文庫所蔵文書」)。次に、注進状の概要を示しておこう。

①行長が攻略する平安道では置目(法律)・法度が徹底せず、治安に不安がある。

②清正を除く主要な部将が軍議を開き、秀吉の明への動座(出陣)は困難であると報告しているが、清正は承知していない。

③秀吉の明への動座は、清正が攻略する咸鏡道のように静謐になれば可能であるが、(行長の担当する)平安道は治安が悪いので(そのルートからの)秀吉の明への動座は受けかねる。

■注進状が意味するもの

 ①については、行長の行政手腕を批判したものになる。③もその延長線上にあるもので、行長の失態を責めている印象を受ける。

 ②の今後の対策について、朝鮮奉行の石田三成らと黒田孝高らは、諸将を集めて軍議を開いた。しかし、清正はオランカイ(中国と朝鮮の国境付近)に出陣していたため、軍議へ出席することができなかった。

 清正は自らがあずかり知らぬところで軍議が催されたことについて、強い不快感を示したのである。この一件は、清正と行長との関係が必ずしも良好でなかったことを示している。

■処遇に関する不満

 それ以前において、清正は浅野長政に対して、今後の自らの処遇について意見をしている(「浅野家文書」)。清正はオランカイ(中国と朝鮮の国境付近)に攻め込んだが、明への侵攻ルートが困難であることを悟った。

 そこで、清正は平安道への攻撃を志願し、それ以外の担当を拒絶したのである。なお、平安道の攻略を担当していたのは行長だった。こうして清正は、咸鏡道の治安を維持したことを誇示し、逆に行長の不手際をあげつらうことによって、自らの立場を際立たせようとしたのである。

■謹慎を命じられた清正

 しかし、朝鮮奉行の増田長盛と大谷吉継が、清正の咸鏡道における敗北を非難したのも事実である。その後、清正は行長と対立したこともあり、朝鮮からの帰国と京都での謹慎を命じられた。清正と行長との確執は、文禄・慶長の役に要因があるようだ。

 その背景には、石田三成の意向があったと言われている。こうしたこともあり、清正は三成との関係に大きな亀裂が生じた。そして、この関係の決裂は、関ヶ原合戦にも大きく作用したのである。

 関ヶ原合戦後、九州で西軍勢力を討伐していた清正は、行長の居城・宇土城(熊本県宇土市)を攻撃した。むろん、長年の遺恨を晴らそうという気持ちがあったに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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