昔から芸能人でも改名する人が多いが、それは戦国大名でも同じだった。改名には運気を良くするためなど、いろいろな理由がある。今回は、3人の天下人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の改名事情を探ることにしよう。

■織田信長の名前の秘密

 織田信長の先祖をたどると、越前剣神社(福井県越前町)の神官だったといわれている。本来、織田氏は忌部(いんべ)氏を「氏」としたが、天文18年(1549)と天文23年(1554)に藤原氏を「氏」とした史料を確認することができる。

 「剣神社文書」の明徳4年(1393)の「藤原信昌・同兵庫助弘置文」に署名をした2人が織田氏の先祖であると考えられているが、真偽のほどは不明である。

 のちに信長は平重盛を先祖とし、「桓武平氏」の子孫と称するが、それは今や誤りであると指摘されており、何かの政治的な意味があったと考えられている。

 信長の「信」の字は、父・信秀と同じく織田家の通字である。信長は、上総介、尾張守、弾正忠という官途を自称した。弾正忠は父・信秀、祖父・信定も名乗っているので、織田家で代々名乗られた官途であるのは疑いない。それらの官途は朝廷から与えられたのではなく、あくまで自称したものである。

■豊臣秀吉の名前の秘密

 次に、天下人の座に着いた豊臣秀吉は、最初に木下を苗字とした。これは、母・大政所の夫・木下弥右衛門にちなんだものと考えられている。

 木下から羽柴に改めたのは、元亀4年(1573)頃のことだ。羽柴の名乗りについては、信長の家臣である丹羽長秀と柴田勝家のそれぞれ「羽」と「柴」の一字を組み合わせたといわれてきた。しかし、その説には確固たる裏付けはなく、あくまで俗説に過ぎないと指摘されている。

 最初、秀吉は「平氏」を自称していた。ところが、天正13年(1585)の関白相論に乗じて関白に就任した際、近衛前久(さきひさ)の猶子となり、藤原氏を名乗るようになった。

 翌年、秀吉は正親町天皇から豊臣氏を下賜された。その後、秀吉は「羽柴」「豊臣」を諸大名に下賜し、さらに官職を与えることによって、大名統制を行おうとしたことで知られている。

■徳川家康の名前の秘密

 徳川家康の出自は、賀茂氏であったといわれており、有名な「葵の御紋」がその証左であると指摘されている。のちに名乗る松平は、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市)にちなんでいる。ただし、のちに松平家では、世良田氏を先祖とする清和源氏を自称するようになった。

 家康は幼い頃から今川義元のもとで人質生活を送っており、元服の際に元信と名乗った。つまり、今川家に従属したという意味で、義元から「元」の字を与えられた。

 その後、家康は祖父・松平清康の「康」の字を採り、元康と改名した。永禄5年(1562)、家康は今川氏と手を切ると、義元の「元」の字を嫌って、「家康」と改めたのである。

 永禄9年(1566)、家康は松平から徳川へと苗字を改めた。このとき同時に三河守に任官した。ところが、世良田氏が三河守になった実績がなかったのが災いした。

 そこで、先祖の世良田義季が得川を名乗った実績があること、同時に新田系得川氏も本姓が藤原だったことを根拠とし、家康だけが本姓を藤原に改めた。こうして家康は、三河守に任官した。

 以上が天下人の改名事情であるが、それぞれの事情から何度も改名したことが分かるだろう。教科書に載っているのは、あくまで最後の名前にすぎないのだ。