テレビを見ると、グルメ番組がかなりの頻度で放映されている。実は戦国大名もそれぞれに大好物があり、現代に伝わっているものもある。今回は、グルメな戦国大名の大好物を探ることにしよう。

■徳川家康と八丁味噌

 徳川家康のもとで激闘を制した三河武士は、八丁味噌を兵糧として持ち歩いたといわれている。彼らは芋づるに味噌をしみ込ませ、戦場では兜を鍋代わりにして、その芋づるを湯漬けにして食べたのだ。

 芋づるにしみ込ませた八丁味噌は、今でいうインスタント食品に近いものだった。大豆には貴重なタンパク質が含まれており、三河武士たちのエネルギー源になったのである。

 八丁味噌のルーツをたどると、岡崎城(愛知県岡崎市)にほど近い八丁村で盛んに作られてきたといわれている。八丁村は、岡崎城から西へ八丁(約840メートル)離れていたので、その名称がついたという。八丁味噌は、先述のとおり戦争時の兵糧としても珍重された。

 今や八丁味噌は多くのグルメを唸らせ、新商品も数多く生まれている。かつて戦場で食した三河武士が見たら、いったいどう思うのか誠に興味深い。

■毛利元就と煎り酒

 弘治3年(1557)、石見の武将・益田藤兼は毛利元就の猛攻に耐えかねて降伏した。窮地に立たされた藤兼に対し、救いの手を差し出したのは吉川元春だった。元春は、元就と藤兼の会談の場をもうけて和解をさせようとしたのである。

 藤兼は元就が白身魚が好物であることを知り、料理を準備した。そのとき、調味料として準備されたのが「煎(い)り酒」である。

 煎り酒は室町時代に考案され、製造法は酒に鰹節と梅干を入れ、煮だしたものだ。元就は料理のあまりのうまさと藤兼の人柄に感じ入って、家臣に加えることにしたといわれている。塩分過多な現在、「煎り酒」は再び脚光を浴びている。

■最上義光と鮭

 庄内地方を領した最上義光の好物は、鮭だったといわれている。庄内川では、秋にたくさんの鮭が遡上して来るので、多くの人々に食された。

 特に、義光は塩引き鮭が大好物だったと伝わっており、自身の書状からも鮭が好きだったことがうかがえるほどである。塩分の濃いものが好まれたのは、東北地方の特徴でもある。

■武田信玄とアワビの醤油漬け

 山間部に位置する甲斐の戦国大名・武田信玄が好んで食したのは、アワビの醤油漬けだったと伝わっている。このことは、『甲陽軍鑑』にも記されている。

 アワビは駿河で採れたと考えられ、保存するために醤油に漬けこまれたと考えられる。そして、陸路で甲斐まで運ばれた。アワビの醤油漬けは非常に栄養価が高く、滋養強壮に富んでいた。

■上杉謙信と「かちどき飯」

 風変わりなのが、越後の戦国大名・上杉謙信である。謙信はいざ合戦となると、いつもよりたくさんの飯を準備し、山海の幸を豊富に取り揃え、家臣らに食べさせたという。

 メニューは、アワビの黒煮、酢で洗った魚やクラゲの刺身、ゴボウや芋茎などの具材がたくさん入った集め汁などだった。これらは合戦前の縁起がよい食事で、「かちどき飯」と称された。また、謙信は大変な酒豪であったといわれている。

■豊臣秀吉と割粥

 豊臣秀吉の好物は、割粥だった。ある日、母の菩提を弔うべく高野山(和歌山県高野町)を訪れた秀吉は、割粥を食べたいと言い出した。ところが、高野山には米が乏しく、米を割る米臼すらなかった。

 そこで、住職は知恵を絞り、米をかき集めて包丁で2つに割ったという。秀吉は大いに喜んだのであるが、米の切り口がきれいなことを不思議に思い、その理由を尋ねた。

 すると、秀吉は僧侶が米を包丁で2つに割ったことを知って、大いに感嘆した。秀吉はその労苦に報いるため、褒美を取らせたと伝わっている(『老人雑話』)。

 このように戦国武将の大好物やそれにまつわるエピソードは非常に多く、興味をそそるところだ。