今年は武田信玄の生誕500年という重要な節目である。ところで、信玄の人生は名僧の影響を受けたことでよく知られている。今回は、信玄と関わった名僧たちを取り上げることにしよう。

 大永元年(1521)、武田信玄は信虎の子として誕生した。天文10年(1541)、信玄は父を放逐して、武田家の当主の座に就いた。以後、各地を転戦して領土を拡大し、亡くなったのは天正元年(1573)のことである。

■臨済宗の禅僧・岐秀元伯とは

 岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)は臨済宗妙心寺派の禅僧として知られるが、その生年および出生地には不明な点が多い。かつて、元伯は尾張国瑞泉寺(愛知県犬山市)に住しており、大宗玄弘(たいそうげんこう)のもとで修業して印可(師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを証明認可すること)を受け、その法を継いだといわれている。

 その後、元伯は甲府五山の名刹・長禅寺の住持に招かれた。当初、長禅寺は山梨県南アルプス市に所在していたが(現在の古長禅寺)、天文23年(1555)に武田信玄の命により甲府市に移転した。

 元伯を長禅寺に招いたのは、甲斐国西部に勢力を誇った、武田氏の支族である大井氏の娘(大井夫人)だった。のちに信玄の父・信虎の妻に迎えられた女性である。

 大井夫人は信仰心の篤い女性であり、早くから元伯に帰依していたという。信玄を産んだ大井夫人は、我が子の教育を元伯に託そうと考えたのだ。

 ただ、長禅寺と信玄が住んでいた躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)までは約17キロメートルと距離が離れており、その指導は頻繁ではなかったと推測される。

■元伯のもとで学んだ信玄

 『甲陽軍鑑』には、信玄が元伯のもとで『碧巌録(へきがんろく)』を学んだと記されている。1125年に成立した『碧巌録』は、宋の圜悟克勤(えんご こくごん)の著作として知られ、臨済宗でもっとも重要な書に位置付けられている。

 信玄は出陣の合間も参禅を欠かすことがなく、『碧巌録』を手放すことがなかったという。元伯はそんな信玄に対して、巻7巻まで修得するよう助言したと伝わる。その熱心さは、元伯も認めるところだった。

 永禄2年(1559)に信玄が出家すると、元伯は導師を務め、信玄の号を与えた(『甲陽軍鑑』)。「信玄」とは、中国の臨済義玄(りんざいぎげん)と日本の関山慧玄(かんざんえげん)という二人の名僧の「玄」の字を取ったものといわれている。

 天文21年(1552)に大井夫人が亡くなると、元伯は葬儀で導師の役を務めた(『高白斎記』)。元伯は、大井夫人の三回忌のときも導師を務めている。

 そのことが縁となって、長禅寺が甲府に移った際に、元伯は開山となったのである(開基は大井夫人)。元伯が亡くなったのは、永禄5年(1562)のことである。

■臨済宗の禅僧・快川紹喜とは

 元伯の没後、信玄が師事したのが快川紹喜(かいせんじょうき)である。紹喜は文亀2年(1502)に誕生し、その祖先は美濃国守護の名門・土岐氏の流れを汲むといわれている。妙心寺派に属する禅僧として知られ、のちに恵林寺(山梨県甲州市)の住持を務めた。

 紹喜が甲斐に招かれたのは、永禄4年(1561)と弘治元年(1555)の2つの説がある。天正元年(1573)に信玄が没すると、その遺言により死は3年間伏せられた。信玄の葬儀は恵林寺で行われ、紹喜が導師を務めたのである。

 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、最後まで紹喜は織田信長に抗したが、恵林寺で焼き討ちに遭い、無残にも焼死した。

 死に際したときの紹喜の「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という辞世はあまりにも有名である。