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【中世こぼれ話】嘉吉の乱で足利義教を殺害した赤松満祐は、なぜ蛇蝎のように嫌われていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
東寺は赤松満祐から松の木を所望され、泣く泣く譲ったという。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 会社にはハラスメント行為などで、必ず部下から蛇蝎のように嫌われている上司がいるだろう。室町時代の播磨守護・赤松満祐は、まさしくそうだったという。なぜ、満祐は嫌われていたのだろうか。

■赤松満祐の人物像

 赤松満祐(1381~1441)といえば、嘉吉元年(1441)6月24日に勃発した嘉吉の乱で有名であろう。6代将軍・足利義教の恐怖政治により、満祐は立場が脅かされたので、義教を自邸に招き暗殺し、事態の打開を図ったのである。

 後世に伝わる満祐の人物像とは、どのようなものだったのか。「赤松氏系図」によると、「身長最短、世人、三尺入道ト号ス」と記されている。一尺が約30センチメートルなので、満祐の身長は1メートル足らずだったことになる。

 しかし、それではあまりに背が低いので、かなり誇張したものと推測される。人々は満祐を「三尺入道」と呼んで、嘲笑していたというのである。

■満祐のエピソード

 満祐の有名なエピソードとしては、東寺(京都市南区)から松の木を譲ってもらった話がある。満祐が東寺の傍を通ったところ、見事な枝ぶりの松が目に入った。

 翌日、満祐は使者を東寺に送り、松の木を所望した。東寺では、すぐに衆議を催し検討した。結局、赤松氏は侍所の所司を務める家柄だったので、東寺から何かと依頼することもあると考え、松の木を譲ることにしたのだ。

 満祐は松の木の代金を払ったものの、成長した寺社の松の木を私邸に移すことは好ましいことではなく、世の人の不興を買った。一説によると、満祐は傲岸不遜で、気性が非常に激しかったという。こうした人物が、嫌われるのは当たり前のことだった。

 満祐がかわいがっていた弟の一人に、則繁なる人物がいる。応永31年(1424)3月、則繁は細川持之の邸宅で安藤某なる人物を殺害した。当時、将軍であった義持は、激怒して則繁に切腹を命じたが、則繁は逃亡した。則繁は嘉吉の乱で満祐に従い、乱後は倭寇の頭目となって活動している。

 こうして数々の逸話を拾い集めると、満祐の悪い人物像が注目されてしまう。果たして、満祐はそんなにひどい人物だったのか。

■別の側面から見た満祐

 満祐の悪評が強調されがちであるが、別の側面も見る必要があろう。

 当時の武家は嗜みとして、和歌や連歌に親しんでいた。むろん、満祐も例外ではない。たとえば、自邸に将軍を招いて連歌会を興行したり、満祐自らも月次和歌会に参加していた。勅撰集に採られた作品もある。弟の義雅や一族の満政も和歌に秀でていた。

 満祐は、決して無教養ではなかったといえよう。満祐は将軍を暗殺したため、何かと悪いイメージのみが伝わり、豊かな教養は無視されたと考えられる。

 満祐にとって不幸だったのは、赤松氏を取り巻く環境だった。赤松氏の庶流は幕府に仕え、重用されていた。赤松春日部家の貞村、持貞や赤松大河内家の満政などは、その代表といえる。満祐は播磨、備前、美作という3ヵ国の守護職を兼ねていたが、決してその地位は安泰ではなかったのだ。

 そのような事情もあり、応永34年(1427)に満祐の父・義則が亡くなると、満祐の運命は暗転した。満祐は、当然ながら父の遺領を引き継げると思っていたが、そうではなかった。当時の将軍・義持は、播磨を御料所(幕府の直轄領)とし、持貞にその代官職を与えることにした。この青天の霹靂の事態に、満祐は怒り狂った。

■その後の満祐

 満祐は京都の自邸を焼き払うと、急ぎ播磨へと下国した。義持はさらに備前、美作を満祐から取り上げることを決意すると、満祐の討伐に着手した。しかし、この直後に持貞が義持の侍女と密通したことが露見したので、満祐は許され、3ヵ国守護職を安堵されたのである。

 翌年、義持が亡くなると、弟の義教があとを継いだ。もともと義教と満祐は友好関係にあったが、やがて決裂することになった。義教は貞村を重用するようになり、一時は備前、美作を満祐から取り上げて与えようとした。また、満祐の弟・義雅の所領が義教ni

取り上げられたことも、不和の一因となった。

 こうして追い詰められた満祐は、義教を討伐せざるを得なくなった。つまり、嘉吉の乱は満祐の陰謀ではなく、責任の一端は義教の態度にあり、起こるべくして起こったといえる。ただ、主君を討伐したことは決して好ましいことではなく、満祐の汚名だけが強調されたということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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