【戦国こぼれ話】室町・戦国時代の日本でも横行した、人身売買の実態に迫る
コロナ禍の影響はすさまじく、感染が拡大する一方のインドでは、経済的に困窮する人々の人身売買が横行しているという。実は、室町・戦国時代の日本でも人身売買があった。いくつかの事例を検証しよう。
■室町時代の人身売買
室町時代の例としては、朝鮮官人・宋希璟(そうきけい)の日本紀行記『老松堂日本行録』という史料に記録がある。その内容とは、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていったという事実だ。
倭寇とは、13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部で活動した海賊である。日本では農業従事者が慢性的に不足していたため、捕らえた人を売却し農作業に従事させていたのである。
捕らえられた人の多くは、九州地方に奴隷として供給されたと考えられる。倭寇の構成員は日本人だけに限らず、中国人なども含まれていた。つまり、人身売買は東アジア的な規模で行われていたのである。
朝鮮人の申叔舟(しんしゅくしゅう)が編集した『海東諸国記』という史料にも、日本における女性と子供の売買の実態が明らかにされている。同書によると、いわゆる傾城(けいせい)屋(遊女屋)と思しき富裕者が貧しい女子を買い入れ、買い取った女子には衣食を与え、わざわざ着飾らせたという。
その目的とは、傾城すなわち遊女として客を取らせるためであった。外国人から見た実態というのは真実味を帯びており、傾聴に値すると思われる。捕らえられた人々は農業従事だけではなく、売色にも従事させられていたのである。
■さまざまな人身売買
厳密な意味では人身売買ではないが、ある技術を手に入れるため、娘を引き渡した例がある。それは、鉄砲にまつわるものだ。一般的に鉄砲伝来は、天文12年(1543)のこととされ(諸説あり)、ポルトガル人が種子島時尭にもたらしたといわれている。
慶長11年(1606)に成立した『鉄砲記』によると、時尭は自らの手で鉄砲を生産しようと苦心惨憺したが、どうしても技術的にクリアできない点があった。そこで時尭は、自分の娘と引き換えにして、その技術を手に入れたのである。これなども、広義の意味で人身売買とみなせるだろう。
戦場での奴隷売買の事例は、『妙法寺記』という史料でも確認できる。そこには、武田方の兵たちが城を攻め落とした際、男女を生け捕り、甲州で売買したと書かれている。
当時、兵たちは戦場でモノを略奪し、それを自分たちの取り分としていた。略奪したのは金銭やモノだけでなく、戦場の周辺にいた人間も対象だった。戦場では奴隷商人が活動しており、捕らえられた人々がすぐに売買された例は、ほかにも見られる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城に籠る北条氏を攻撃した際、上杉軍に対して女・子供を売却してはならないと命じている。女・子供の売却を禁止するということは、それまで行われていたことの裏返しである。捕らえた人々は、将兵の戦利品であり、そこにうごめく奴隷商人の姿を認めることができよう。
■「人市」の存在
戦国期には、「人市」というものがあったと伝えられている。「人市」とは、いわゆる奴隷市場である。それは駿河国の富士の麓にあり、天文・永禄の頃だったと言われている。人市では妙齢の女子を売買し、遊女に仕立て上げたと言われている。
古老の談といわれており、決して確証があるわけではない。しかし、戦国時代の最中でもあり、戦場で捕らえた人々を市で売買していた事実があっても不思議ではない。
■織田信長と人身売買
織田信長の時代にも人身売買があった。『信長公記』天正7年(1579)9月の条には、女性を売買したという記述がある。次に、その内容を掲出しよう。
去る頃、下京場之町で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺(大阪府堺市)で日常的に売買していた。この度、村井貞勝がこの話を聞きつけ、召し捕らえて尋問すると、これまで80人もの女性を売ったと白状した。
この女性は、いわゆる門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていたようである。こうした話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入った。報告を受けた信長は、許さなかったのである。
このあと女性は、厳しい処罰を受けたようである。織田政権下においても、人身売買は法度であった。戦場以外でも、借金等さまざまな理由が考えられるが、女性の売買は日常的に行われていたようだ。奴隷商人は、全国各地に散在していたらしく、豊後出身の女性が大坂で売買されていた例が知られている。
人身売買と言えば、過去の産物と考えられがちだが、決してそうではない。コロナが一刻も早く終息し、人身売買という悲劇をなくしたいものである。