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【戦国こぼれ話】明智光秀は山崎の戦いで死なず、関ヶ原合戦の出陣前に川で溺死したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
一説によると、明智光秀は関ヶ原に出陣の途中、川で溺死したという。(写真:peisama/イメージマート)

 5月8日(土)に放映されたTBS「世界ふしぎ発見」(本能寺の変 解き明かされる新たな真実)を楽しく拝見した。おもしろいと思ったのは、明智光秀は山崎の戦いで死なず、関ヶ原合戦に出陣して溺死したという説である。以下、この説について考えてみよう。

■通説による明智光秀の最期

 最初に、通説による明智光秀の最期を取り上げることにしよう。

 本能寺の変後、光秀の天下は長く続かず、天正10年(1582)6月13日に落命した。光秀は居城のある近江坂本(滋賀県大津市)に逃げる途中、小栗栖(京都市伏見区)で土民に殺害されたのだ。あまりに悲惨な最期だったといわざるを得ない。

 その首は本能寺に晒され、6月24日に京都・粟田口に首塚が築かれた(『兼見卿記』)。光秀の企みは無残な結果に終わったのであるが、その墓は各地にあるという。光秀が死んだことは、『兼見卿記』ほか信頼に足りうる史料に書かれているので、たしかなことである。

 しかし、番組で紹介されていたように、岐阜県山県市には光秀にまつわる衝撃的な伝説があった。

■岐阜県山県市に伝わる伝説

 次に、岐阜県山県市に伝わる伝承を取り上げることにしよう。それは、光秀の出生からはじまる。

 大永6年(1526)、光秀は土岐元頼(美濃守護・土岐成頼の4男)の子として、現在の山県市中洞で誕生した。母は、中洞源左衛門の娘・お佐多(のちの松枝)だったといわれている。

 山県市の白山神社近くの武儀川には、行徳岩なる岩がある。光秀の母は妊娠すると、「男の子ならば、天下を取るような子を授けてください」と水垢離をして祈願したと伝わる。そして、光秀の「産湯の井戸跡」もちゃんと残っている。

 光秀が7歳のときに父・元頼が没したので、中洞源左衛門が明智城(岐阜県可児市)に光秀を連れて行き、土岐氏の庶流・明智光綱に預けた。その後、光秀は光綱の養子になったのである。

■山崎の戦い後のこと

 光秀は本能寺の変で信長を討つと、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉と対決した。通説によると、先述のとおり光秀は無残な敗北を喫し、逃亡の途中で土民に討たれたことになっている。

 しかし、山県市に伝わる伝承によると、土民に討たれたのは光秀ではなく、影武者を務めた荒木山城守行信なる人物だったというのだ。光秀が土民に襲撃されると、行信は光秀に再起を図るように促し、自ら「自分が光秀である」と名乗り、打って出たと伝わる。光秀の身代わりになったのだ。

 その後、光秀は山県市の西洞寺へと逃げ込み、生き延びたという。生き延びた光秀は行信に感謝し、その名の「荒」などを取って、「荒深小五郎」に改名したのである(以下も「光秀」で統一)。

■無念の溺死

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、光秀は東軍の徳川家康に与するため出陣した。しかし、不幸にも光秀は根尾村(岐阜県本巣市)の薮川で洪水に見舞われ、乗っていた馬とともに溺死したのである。

 光秀の遺骸は、荒木山城守行信の子・吉兵衛によって葬られた。白山神社の「桔梗塚」が光秀の墓といわれている。「桔梗」は、明智家の家紋でもあった。

 番組でもあったように、現在も光秀の子孫とされる荒深姓の方がたくさんおられる。そして、光秀の遺徳を偲んで、年に2回「明智光秀公供養祭」が催されているのだ。

■光秀は生きていたのか

 光秀が生き延びたという説としては、天海になったという話が有名である。この説は大正時代から唱えられたものだが、裏付けとなる根拠がなく、現在では否定されている。

 山県市に伝わる伝承もおもしろいものだが、残念ながら光秀が生き延びて、関ヶ原合戦に出陣する途中で溺死したという説を裏付ける史料はない。

 しかし、なぜ山県市にこのような伝承が残ったのかを考えることは、非常に意義深いものがあると考えられる。今後、各地に残る光秀伝承と合わせて検討されるべきだろう。 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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