【戦国こぼれ話】桶狭間の戦いで無念の死を遂げた戦国大名今川義元は、公家化した軟弱大名だったのか
昔は「男は軟弱ではいけない!」と言われたが、今は性による差別を禁止しているので、言われなくなった。しかし、戦国大名今川義元は、未だに公家化した軟弱大名だったと言われているが、それは正しいのだろうか。
■今川義元とは
永正16年(1519)、今川義元は氏親の三男として誕生した。天文5年(1536)に兄の氏輝が亡くなると、家督争いで次兄の恵深を破り、今川家の家督を継承した。その後、義元は領土の拡張と支配に努め、「海道一の弓取り」と称された。
しかし、永禄3年(1560)5月、今川義元は尾張の小大名に過ぎなかった織田信長の攻撃を受け、桶狭間で落命した。これにより今川家は、衰退の一途をたどることになった。
義元が「公家化した軟弱大名」と言われたのには、もちろん理由がある。
たとえば、義元は太り過ぎて馬に乗れず、輿に乗って移動したといわれている。しかし、『信長公記』によると、義元は馬に乗って逃げたというのだから、そもそもが間違いである。また、討ち取られた義元の首には、公家風の鉄漿(かね。お歯黒のこと)が施されていたという。後述するとおり、義元は和歌や連歌にも通じていた。
そのような事情もあってか、「今川氏は公家文化に染まりきってしまい、すっかり軟弱化した」といわれている。果たして事実なのであろうか。
■文芸は軟弱のバロメーターではない
今川氏歴代は、文芸に対して深い関心を持っていた。義元は母が中御門宣胤の娘(のちの寿桂尼)であり、少なからずその素養を受け継いだことであろう。
そして、現実に義元は今川為和を招き、和歌の指導を受けていたことも明らかになっている。そのような事情も相まって、義元には公家化、軟弱化のレッテルが貼られたのかもしれない。
果たして、そういう理由だけで今川氏は軟弱化したといえるのであろうか。
全国的に見ても、戦国大名の多くは和歌や連歌に興じたり、『源氏物語』や『伊勢物語』に親しんでいた。そのために、大名は三条西実隆や一条兼良ら知識人と称される公家らと交流を深め、献金の対価として文芸作品の写本を入手していたことが指摘されている。
また、連歌師は盛んに地方に下っていたが、彼らが大名家に立ち寄ると歓待していた。連歌は座の文学であり、当主と家臣が一体感を強める効果がったという。
多くの戦国家法に記されているとおり、文芸に親しむことはある意味で、当主としての責務であった。一国の指導者には、豊かな教養が必要だったのである。
教養と言っても文芸作品に限ることはない。『孫子』などの兵法書や『論語』といった中国の古典も愛読されており、合戦や領国支配に生かされた。
■義元は領国支配にも腐心していた
義元の名誉のためにいうと、何も朝から晩まで和歌や連歌に興じていたわけではない。『今川仮名目録追加』を制定したり、隣国に攻め込んで領土を拡大したり、検地を行うなど領国支配に腐心していた。
特に、駿河、遠江、三河の3ヵ国で実施した検地は、今川家の財政を豊かにした。また、寄親・寄子制度を整備し、軍役を賦課することは、他国との戦争で優位に立つ政策だった。
このような義元の姿を確認すると、桶狭間でのたった一回の大敗北で「公家化した軟弱大名」と評価するのは、あまりに気の毒といわざるを得ない。