【戦国こぼれ話】大坂冬の陣の和睦後、大坂城の惣構・堀を埋め立てたのは徳川家康の謀略だったのか
衆議院解散の日程(10月24日投開票)をめぐって、「首相の“五輪花道論”も絡めた謀略」などとの憶測が流れている。ところで、大坂冬の陣の和睦後、大坂城の惣構・堀の埋め立てたのは徳川家康の謀略だったとの説があるが、それは正しいといえるのだろうか。
※「大阪」は前近代の表記の「大坂」で統一。
■通説による和睦の条件
慶長19年(1614)の大坂冬の陣後、豊臣氏の居城である大坂城の本丸、二の丸、三の丸の惣構・堀の埋め立て工事を実施することが和睦の条件となった。これまでの通説とは、おおむね次のようなものであろう。
徳川方は外堀のみを埋めるという了解のもとで工事を開始したが、断りもなく内堀の二の丸、三の丸を埋め立てた。驚愕した豊臣方は、二の丸、三の丸の埋め立ては豊臣家が行う予定であり、和睦の条件に反していると申し入れをした。
しかし、徳川方は豊臣方の意向を無視して、強引に工事を敢行し、あっという間に本丸、二の丸、三の丸の惣構・堀を埋め立ててしまった。つまり、大坂城の惣構・堀などの埋め立ては、徳川方の謀略によるものと解釈されてきたといえよう。家康が「狸親父」と称される所以である。
たとえば、『三河物語』には徳川方が惣構を二の丸も含むものと強引に解釈して、堀の埋め立てを行ったと記している。この記述などは、徳川方の謀略であったことを如実にあらわしている。果たして、大坂城の惣構・堀などの埋め立ては、本当に徳川方が仕組んだ謀略なのだろうか。
■通説は誤り
惣構・堀の埋め立てについて各史料の記述を見ると、大坂城の外堀・内堀を埋め立て、本丸を残すことは、豊臣方と徳川方がともに了解した事項だったことがわかる(『本光国師日記』、「真壁文書」など)。大坂城の惣構・堀の埋め立て自体は、別に謀略ではない。
とはいえ、徳川方の目的は、最初から堅固な惣構、二の丸、三の丸を破却し、その防御機能を封じることにあり、やがては埋め立てられる運命にあったと考えてよいだろう。
慶長19年(1614)12月26日付の細川忠利書状によると、二の丸、三の丸の破壊は豊臣方の担当、惣構の破壊は徳川方の担当であったことが書かれている(『綿考輯録』)。浅野忠吉の書状にも「二の丸、三の丸、惣構まで、ことごとく破壊するとのことである」とある。
詳しい分担までは記していないが、二の丸、三の丸、惣構の3つが破却の対象なのは間違いなく、豊臣方も了解済みだったことを改めて確認できる。それが家康の謀略になった理由は、家康を「狸親父」にするための脚色に過ぎず、単なる創作にすぎないのだ。
■実際の工事日程
実際の惣構・堀の埋め立て作業について、『駿府記』『本光国師日記』などを参考にしながら確認していこう。埋め立て工事の作業命令は、和睦が成立すると各地の大名へ伝達された(『鍋島勝茂譜考補』、『義演准后日記』など)。
翌慶長20年(1615)1月8日、早くも惣構や堀などの埋め立てが開始されたが、大坂城の規模があまりに巨大なため、埋め立て工事は前途多難であった。
たとえば、二の丸は予想外にも深い堀になっており、土手を潰しても作業は終了しなかった。結局、織田有楽の家屋などを取り壊し、それらの廃材などで堀を埋め、ようやく同年1月19日に工事を終えたのである。難工事とはいえ、期間は2週間に満たなかった。
すべての工事は同年1月24日に終了し、大坂城は本城のみが無残な姿を残すことになり、惣構や堀などの防御機能がほぼ失われたのである。このことは、同年5月の大坂夏の陣の敗北の決定打になった。
埋め立て工事後の大坂城を見た崇伝は、「大坂城の堀が埋まり、本丸だけの浅ましく、見苦しい姿になった」と率直な感想を漏らしている。軍事に素人である崇伝が見ても、その姿は無様なものだったのだ。