【戦国こぼれ話】今も数多く残る合戦図屏風。そこには、どのような制作意図があったのだろうか

数多く制作された合戦図屏風には、さまざまな思いが込められていた。(提供:kumao/イメージマート)

 舞台『刀剣乱舞』の「大坂夏の陣」編が開幕した。大坂の陣といえば、徳川家と豊臣家の最後の攻防だが、その様子は合戦図屏風として残っている。合戦図屏風とは、いかなる目的で制作されたのだろうか。

■歴史が古い合戦図

 合戦後、大名家では合戦図屏風を制作し、先祖の武功を称えた。実は、合戦の様子を描いた作品の歴史は古いといえる。

 現存する最古のものは、永保3年(1083)に始まる後三年の役を描いた『後三年合戦絵詞』(重要文化財・東京国立博物館所蔵)である。成立したのは貞和3年(1437)で、作者は飛騨守惟久なる人物だ。

 そのもとになったといわれているのが、承安元年(1171)に後白河法皇が院宣により制作を命じた、『後三年絵』であるといわれている。以後、『蒙古襲来絵詞』(『竹崎季長絵詞』とも。宮内庁所蔵)などの合戦絵巻が盛んに作られるようになった。

 そうした合戦図が描かれた背景には、どのような意図があったのだろうか。そもそもの目的は、単に観賞用ということになろう。平安末期から鎌倉時代にかけて、数多くの合戦絵巻が制作されたが、単に絵だけでなく詞書(絵巻の物語の筋、内容を説明した文章)も添えられていた。

 合戦図の大きさは縦の幅がおおむね30センチメートルだが、長さは10~25メートルと長大だった。当時の人々にとっては、さながら現在の映画を観るような感覚だったに違いない。

 しかし、先述した『蒙古襲来絵詞』は観賞用ではなく、竹崎季長が自らの軍功を強調し、所領を得るための目的で描かれた。以後、合戦図は観賞という目的から、恩賞を得るなどの明確な意図をもって制作されるようになったといわれている。

■戦国時代の合戦図

 天保8年(1837)に成立した『姉川合戦図屏風』(福井県立歴史博物館所蔵)は、徳川家康(あるいは徳川軍)を顕彰するため、制作されたといわれている。

 同じく『大坂夏の陣図屏風』(大阪城天守閣所蔵)は、もともとも福岡藩主・黒田家が所蔵していたもので、黒田長政が戦後になって描かせたといわれている。つまり、制作された目的は、黒田家や長政の顕彰ということになろう。合戦図によっては、活躍がわかるように人物名をわざわざ注記しているものもある。

 『朝鮮軍陣図屏風』(鍋島報效会所蔵)は、慶長3年(1598)における落城寸前の蔚山城の攻防を描いており、出陣した鍋島直茂が同行させた絵師に描かせたものといわれている。つまり、直茂は合戦の場面を記録しようという意図を持って、絵師を同行させたと考えられる。

 『三木合戦絵図』(法界寺所蔵)は、名君の別所長治の遺徳をしのび、絵図を解説するという形式を採った(絵解き)。今も語り継がれているほどだ。

 近世になると軍学が発達し、戦国時代の合戦を分析するようになった。しかし、軍記物語や兵学書だけでは飽き足らず、合戦図屏風によって実際の場面を見たいとの要求が高まってきた。こうした要望に応じる形で、合戦図が描かれることもあったのである。

■合戦図の見方

 屏風は、六曲あるいは八曲が1つの単位になっている。六曲(あるいは八曲)の片方が単独のものは、一隻という。それが2つ対になると、六曲(あるいは八曲)一双といい、右は右隻、左は左隻と呼ぶ。また、六曲(あるいは八曲)を構成する1枚の絵は扇という単位で構成され、右から一扇で始まり六扇(あるいは八扇)で終わるようになっている。

 物語は右から始まり、左へと時間が進んでいく。基本的に1つの屏風で戦いの開始から終了までを描くので、異なる時間の出来事が描き込まれる。この技法は「異時同図法」という。

 とはいえ、合戦の詳細を時間的経過に合わせて、詳細に描くのは困難なため、ハイライト・シーンを切り取って大胆に描くようになった。また、近世に制作された作品には、戦国時代には存在しなかったものが描かれることもあった。

 比較的多く残っている作品は、関ヶ原の戦いや大坂冬(または夏)の陣のものになる。2つの合戦後は平和な時代になったので、絵を生業とする者も現れた。大名たちは往時の合戦に思いを馳せ、自らの記憶をたどりながら、絵師に要望を出したと考えられる。

 つまり、合戦図屏風は偶然に残ったものではなく、何らかの意図があって制作され、現在に脈々と伝わったのである。