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【中世こぼれ話】長禄・寛正年間の天候不順・飢饉に際して、将軍足利義政は実に無責任かつ無策だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
洪水による土砂崩れ。室町時代の飢饉による死者は洪水で流された。(写真:ロイター/アフロ)

 コロナの緊急事態宣言が解除されたものの、感染者は再び増加に転じている。政府には、対策をお願いしたいところだ。今から約560年前、将軍だった足利義政は天候不順・飢饉に際して、無責任な態度を示した。その状況を検証しておこう。

 長禄・寛正年間は政治的な混乱に止まらず、激しい飢餓の時代だった。長禄3年(1459)9月、山城・大和の両国が暴風雨に襲われ、京都の鴨川は洪水となり、多くの人々が亡くなった(『碧山日録』など)。こうした暴風雨や洪水は、山城・大和の周辺国にも大きな被害をもたらしたと考えられる。

 人命はもちろんであるが、事態は農作物の収穫などにも大きく影響したはずだ。そして、一連の自然災害は政治、経済、社会に深刻な悪影響を与えた。これらの大きな自然災害は、義政の政治手腕そして危機管理能力を試すこととなった。

 同年9月、東福寺派の禅僧雲泉太極は、僧侶が天下安泰を願って祈祷をしているのに、人々が自然災害や飢餓に苦しむ理由を5つあげている(『碧山日録』)。そのうちの3つは、神の怒りや祟りなので省略するが、(1)義政は明徳(聡明な徳)な人物であるが、側近たちがそれをくらましていること、(2)重臣たちの争いの間、民衆たちが徳政を求めて一揆を起こしていること、という2つは幕府の体制や将軍の能力に関わるものだ。

 太極の目には義政が聡明な君主として映っていたようで、諸悪の根源というべきものは、義政を支えるはずの側近らであった。2点目は当時問題となっていた、幕府重臣(畠山政長・義就の抗争など)たちの争いである。混乱した幕府のもとにあって、民衆は徳政一揆を起こし、証文の破棄などを行っていたのである。

 こうなると、もはや義政個人の手に負えるような状況ではなかったのかもしれないが、義政が為政者である以上、甘えは許されるものではない。しかし、飢饉の状況は、ますます深刻さを増していた。

 寛正2年(1461)1月、前年の旱魃、長雨による異常気象やイナゴの害によって、未曾有の不作となった。京都は貧民で溢れかえり、餓死者が続出するという危機的な状況だった。四条大橋から賀茂川を眺めると、死体によって川が堰き止められ、死臭が一帯に充満する地獄絵図であったという。

 死体の数は、約8万2千人に上ったと記されている。これは、賀茂川周辺の死者の数であるから、実際には広い範囲でもっと多くの死者がいたことは想像に難くない。そして、都市京都には、周辺諸国からも多くの貧民が流入したといわれている。

 この事態に対して、義政の対応は比較的早かったといってもよい。同年1月には、数万人いたという物乞いらに対し、1人あたり6文を与えた(『経覚私要抄』)。さらに一条道場の聖を奉行とし、1人あたり50文が与えられた。このときは、約1万人の被災者数を見込んでいた。1文は、現在の貨幣価値に換算して100円程度である。後者の対策については、約5千万円を準備したことになる。

 この飢饉では、勧進僧願阿弥が救済に立ち上がったことで有名である。願阿弥の出自は知る由もないが、恐らく貧民の出身ではないかと考えられている。その願阿弥に援助の手を差し伸べたのは、他ならぬ義政であった。願阿弥が勧進によって供養したいという申し出に、義政は許可を与えた。

 『臥雲日軒録抜尤』によると、義政は願阿弥に対して、100貫文(現在の貨幣価値に換算して、約1千万円)を勧進した。義政が積極的に災害対策を行ったことをうかがえよう。

 義政の支援により、願阿弥ら勧進僧グループの精力的な活動が始まる。願阿弥は収容施設となる小屋を建て、貧民を収容した。足腰の立たない者は、竹輿で運んだという。食事を与えるときは消化に注意し、まず栗粥を与え、徐々に米飯へと切り替えた。死者が出るたびに埋葬し塚を作るなど、供養を行った。こうした活動に幕府から資金が出ているものの、勧進僧に任せきりという印象は拭えない。

 義政が資金を提供したのには、もちろん理由があった。同年1月、義政は夢を見た(『経覚私要抄』)。その夢とは亡父義教が夢枕に立ち、自らの生前の罪を悔恨の念で語り、物乞い等が餓死することを防ぐために施行をして欲しいと言ったことだ。

 願阿弥らの積極的な取り組みにもかかわらず、事態は好転しなかった。今のように医療技術が発達しているわけでもなく、衛生面も良好ではなかった。餓死者や病死者の数は止まるところを知らず、1日に3百人あるいは5百人になると言われた。

 死体は異臭を放って腐敗し、やがて伝染病が万延する元凶となった。義政にできることは、施餓鬼供養によって、死者の霊を弔うにしか過ぎなかった。神仏に祈るより他の手段がなかったのは、やむ得なかったのかもしれない。しかし、こうした事態もやがて解消されることとなった。

 かねてから雨の日が続いていたが、同年4月24日には今までになかったほどの大雨になった。その大雨によって、京都の至るところに放置されていた餓死者、病死者の死体は、一気に流されていったのである。死体の措置に困惑していた都の人々は、この大雨に喝采した。願阿弥らが昼夜なく死体の処理に従事しても追いつかなかったのが、自然現象によって一気に解決されたのだから、何とも皮肉な話である。

 結局、義政は主体性を持って飢饉などに対応したのではなく、あくまで他人任せだった。その無責任さと無策には、呆れるよりほかがない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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