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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦で笹尾山に陣取った石田三成が敗北した決定的な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原合戦で西軍を率い、笹尾山に陣取った石田三成。(提供:アフロ)

 「ぎふ140景」のひとつ笹尾山(岐阜県関ヶ原町)が岐阜新聞に取り上げられていた。笹尾山は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、西軍の石田三成が陣を置いた場所だ。では、なぜ石田三成が敗北したのかを考えてみよう。

■関ヶ原合戦が起こった理由

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発するが、石田三成は徳川家康と最初から関係が悪かったわけではない。むしろ、五大老のうち前田利長、上杉景勝が窮地に追い込まれたこと、五奉行のうち三成本人と浅野長政が逼塞させられたことが、豊臣政権ひいては豊臣秀頼を危機に追い込むと考え、三成は家康討伐を決意したのである。

 ところが、三成にはいくつか弱点があった。一つは、自身が小身の大名に過ぎず、軍事力という点では毛利輝元、宇喜多秀家らの大身の大名を頼らざるを得なかったことだ。

 もう一つの弱点は、朝鮮出兵時の不手際により、加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の諸大名と関係が良くなかったことである。したがって、以後の戦略では、いかにして西軍に与する諸大名を集めるかが重要な課題になったといえる。

 そもそも反家康という点では、輝元が先頭に立っており、豊臣政権を担う五奉行の長束正家、増田長盛、長束正家を西軍に引き入れたのは、三成にとって有利であった。会津で家康を迎え撃つ景勝、信濃上田の真田昌幸・信繁父子の存在も心強いものがあった。

 しかし、不安材料があったのも事実である。たとえば、脇坂安治・安元は西軍に与したものの、実は東軍に心を寄せたことが明らかになっている。

■三成の誤算

 ここから三成にとって誤算だったのは、東軍による調略戦である。反三成の急先鋒であった黒田長政は、毛利方の吉川広家を味方に引き入れるべく、盛んに書状を送っていた。

 広家は最後の最後まで悩み続けたが、最終的に毛利家の本領安堵を条件にして、西軍を寝返り東軍に与するため、徳川方と起請文を交わした。これを知らなかった三成は、輝元からはしごを外された形になった。

 もう一つの誤算は、小早川秀秋の裏切りである。一般的に、秀秋は戦いの当日に家康から「突撃せよ」との意味で松尾山の陣に鉄炮を撃ち込まれ(「問鉄炮」)、慌てて麓の大谷吉嗣の陣に攻め込んだといわれている。

 しかし、秀秋は早くから黒田長政、浅野長政から東軍に与するよう熱心に口説かれており、毛利氏と同様に合戦の前日には徳川方と起請文を交わしていたことが明らかにされている。しかも、「問鉄炮」の逸話は創作であり、秀秋は開戦と同時に東軍の一員として、西軍に攻め込んだことが指摘されている。

 ほかにも誤算があった。輝元と並び、もう一人の主力であった宇喜多秀家は、宇喜多騒動で重臣が家中を離れ、著しく軍事力が低下していたことだ。また、薩摩の島津義弘は長らく兄の義久との意思疎通が十分ではなく、庄内の乱で家中が混乱するなど、万全な態勢ではなかった。

 つまり、西軍は宇喜多、島津のような大身の大名が味方であったものの、それぞれの家中に大きな不安を抱えていたので、戦力として期待できなかったのである。

■三成の壮大な戦略と失敗

 ただし、三成の戦略には壮大なものがあった。同年8月5日の時点において、三成は西軍の軍勢の配置を構想していた(「真田家文書」)。

 伊勢方面には宇喜多秀家、毛利秀元を向かわせ、美濃は三成、織田秀信、小西行長の軍勢を配置。加賀の前田利長に備え大谷吉継を対峙させ、近江の瀬田方面には熊谷直盛ら九州勢を置いた。そして、大坂城には前田玄以、増田長盛と秀頼の馬廻衆を置き、万全の態勢を整えた。総勢約18万5千の軍勢によって、東軍を迎え撃つ計画を立てていたのである。

 ところが、緒戦となる同年8月23日の岐阜城の攻防で、織田秀信は降参に追い込まれ、これが最初の大きな誤算となった。三成は大垣城に在城しており、家康も近くに在陣した。

 三成は大坂城に使者を遣わし、輝元に出陣を要請する。やがて、大垣城や伊勢から転回した西軍の諸勢力は、関ヶ原(山中、南宮山など)に集結した。こうして、運命の関ヶ原合戦の開戦を待つだけになった。

 しかし、合戦前日の9月14日、毛利家は徳川方と和睦の起請文を交わした。秀秋も同じである。こうして、西軍の主力である毛利氏は南宮山を動かず、秀秋も東軍に寝返り大敗北を喫した。

 つまり、三成は合戦前の調略戦で負けたといえよう。複雑な政治情勢のなかで、味方を十分にまとめきれず、最後のツメが甘かったといえようか。

 明治になり、陸軍大学校が軍事顧問としてドイツから招いたメッケル少佐は、関ヶ原合戦の東西両軍の配置図を見せられ、「西軍が勝ったはずだ」と即答したといわれている。しかし、このメッケルの逸話は、何の史料的な根拠もないことを申し添えておく。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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