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【戦国こぼれ話】広島城がそびえ立つ「広島」という地名のルーツについて考えてみよう

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
老朽化が進む広島城。一刻も早く対処が必要だ。(写真:アフロ)

 広島城の老朽化が進んでいる事もあり、木造復元を求める2万筆もの署名が広島市に提出されたという。広島城については、以前こちらに書いた。今回は、「広島」という地名のルーツについて考えてみよう。

■毛利氏の思い入れのある「広島」

 県名や県庁所在地で「広島」の名称が冠されているが、いかなる理由があったのであろうか。そもそもこの地域は、「五箇」といわれていた。天正17年(1589)になって、戦国大名の毛利輝元がこの地に広島城(広島市中区)を築き、「広島」と命名したといわれている。

 当時、広島城のあった場所は、太田川河口デルタの形成途上に位置した。そこには、箱島や日地島(比治山)などいくつかの島が点在していた。輝元がこの地を選んだのは、山陽道に接しており、瀬戸内海にも近く、河川・海上の便に優れていたからだろう。

 これらの島々は、五箇荘(五箇村、五ヶ村、佐東五ヶ)と総称された。輝元は広島城を築城した島がもっとも広かったことから、「広島」と命名したといわれている。ただし、地盤が緩いということもあって、築城の工事は難航したといわれている。

 輝元は「広島」の命名に際して、深い意図を持っていたという。毛利氏はそれまで山間部に位置する吉田郡山城(広島県安芸高田市)を居城としていたが、不便を強いられていた。山城から平城へというのは、当時の必然的な流れだった。

 そこで、輝元は政治経済上の利便性を求めて、この要衝地に築城を決意した。広島築城の事業は大プロジェクトであり、城の名称には輝元の家運長久の熱い思いが込められたのである。

■毛利氏の祖先・大江氏

 実のところ、毛利氏の先祖をたどると、鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元に行き着く。毛利氏の本姓は大江氏であり、輝元はその末裔であることを大きな誇りとしていた。なお、毛利氏という姓のルーツは、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)である。

 毛利氏は子らの名乗りを決める際、「元」の字をもっとも多く使用したが、広元にちなんで「広」も好んで使っていたほどである。元就の嫡男・隆元、孫の輝元は、その典型例だ。

 輝元の祖父・元就の時代は、完全に臣従した者には「元」の字を名前の一部として与え、そうでない国人衆には「広」の字を与えたといわれている。

 元就の方針は、孫の輝元にも引き継がれた。輝元が家臣の命名に関与する場合、「広」という字は非常に重要な意味合いを持ったのである。

 「広」の字には、「広大」「末広」という縁起の良い意味が含まれていた。縁起を担ぐというのも、当時としては普通の感覚である。毛利氏が将来に向かって広がっていくことを念願したのである。

 つまり、「広島」の「広」の字は先祖・大江広元から採用し、縁起の良い文字という意味も込められたのだ。「広島」の「島」は在地の土豪の出身で、城普請案内や普請奉行を務めた福島元長の名字「島」からとって命名されたという。

 福島元長の生涯については、不明な点が多い。一説によると、元長は広島城の築城に際して、輝元らを現地で案内したといわれている。

 いずれにしても、「広島」という地名には、輝元の毛利家発展の熱い思いが込められていたことに変わりはない。一刻も早く広島城の修改築が進むことを期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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