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【戦国こぼれ話】「愛姫MEGOHIME」が放映。伊達政宗の正室「愛姫」とは、どんな女性だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗騎馬像。愛姫は政宗の正室だった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 今、福島テレビで「愛姫MEGOHIME」が放映され、なかなかの人気だという。私は千葉在住なので視聴が叶わないのが残念だが、今回は伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)を取り上げることにしよう。

■愛姫のこと

 永禄11年(1568)、愛姫は陸奥三春城(福島県三春町)主・田村清顕の娘として誕生した。戦国期の東北地方は、中小の大名が群雄割拠しており、常に一触即発の緊張感が漂っていた。

 当時、出羽国米沢城(山形県米沢市)主であった伊達政宗は田村清顕との関係が必ずしもよくなかった。そこで、清顕は母が伊達氏、妻が相馬氏の家系だった縁をたどり、政宗と同盟を結ぼうと考えた。

 天正7年(1579)、清顕は政宗に娘の愛姫を嫁がせることによって、盟約を結ぶことに成功した。政略結婚である。しかし、輿入れの際には、従った侍女たちを「相馬氏の手先である」という理由により、媒酌の女房を討ったと伝える。

 それほど伊達氏と田村氏の間には、緊張感が走っていたのである。そのせいか、政宗と愛姫の仲は当初よくなかったが、やがて修復に向かったといわれている。

 天正14年(1586)に清顕が没すると、田村氏の弱体化が進んだ。やがて田村家に内紛が起こり、清顕の後継者である宗顕は政宗に従属することになった。

■愛姫の幸せな生活

 それと期を一にするかのように、愛姫は嫡子・忠宗、五郎八姫(のちに松平忠輝室)、宗綱、竹松丸を産み、幸せな生活を送ったのである。末の子が誕生したとき、愛姫は40歳近くの年齢になっていたという。

 忠宗は2代目の仙台藩主となり、宗綱は伊達氏の一門で岩ヶ崎伊達家の初代当主となった。ただし、竹松丸は慶長20年(1615)に夭折した。

 中央では豊臣秀吉が天下を取り、各地の大名は一斉に服属した。その証として、政宗は愛姫を人質に送らざるを得なくなった。この間、愛姫は聚楽第の伊達屋敷に住み、政宗に書状を送って、京や大坂の情勢を知らせた。

 さらに、愛姫はいざという時には匕首(あいくち)で首をかき切り、決して恥辱を受けないという悲壮な覚悟を抱いていた。一方で、愛姫は秀吉やその妻の北政所にかわいがられていたことが伝わっている。

■愛姫の死

 寛永13年(1636)、愛姫は夫・政宗と死別すると、出家して陽徳院と号した。そして、承応2年(1653)に亡くなった。享年86。遺骸は、仙台松島の陽徳院(宮城県松島町)の墓所に葬られたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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