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【戦国こぼれ話】「麒麟ロス」!? 明智光秀が山崎の戦い後、確実に亡くなったという証拠の数々

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
西教寺(滋賀県大津市)にある明智光秀一族の墓。(写真:ogurisu/イメージマート)

 大河ドラマ「麒麟がくる」が終わって、早くも約2週間が経過。ドラマの最後は、光秀が生き延びたかのような描写になっていた。その影響からか、ネット上では「本当は光秀は生きていたのでは?」とざわついていた。しかし、光秀は山崎の戦い後、確実に亡くなっているので、その証拠を挙げておこう。

■山崎の戦いで敗北

 天正10年(1582)6月13日、山崎の戦いで秀吉軍に敗北した光秀は、勝竜寺城(京都府長岡京市)へ逃げ帰ったが、そこも羽柴方の軍勢に包囲されて即座に脱出した。光秀は、居城がある坂本城(滋賀県大津市)を目指して逃亡した。次に、光秀の最期に触れておこう

 逃亡中の光秀ら落武者の一行は、現在の京都市伏見区小栗栖へと差し掛かると、竹薮で農民らの落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げた。当時、農民らは落武者の所持品や首級を狙い、落武者狩りを行っており、首級を持参して恩賞を得ていた。

 光秀らの首は、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)に晒され、衆人の面前で辱めを受けた。光秀の最期を見るため、多くの見物人が集まったという。

 しかし、光秀が生き延びたという説もある。光秀が天海となって徳川家康に仕えたという説もあったが、これは以前取り上げたとおりで成り立たない。詳細はこちら

 ほかにも光秀が生き延びたという説がある。山崎の戦いの後、竹藪で殺されたのは光秀でなく、影武者の荒木行信なる武将だったというのだ。そして、落武者となった光秀は美濃国中洞(岐阜県山県市)で逼塞し、姓名を荒深小五郎として生き永らえた。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、光秀(荒深小五郎)は家康方に与すべく出陣したが、哀れにも途中で洪水に遭い、溺死したというのである。

 この話は尾張藩士・天野信景(1663~1733)の随筆集『塩尻』に書かれたものであるが、もとより史料的な根拠がないうえに、信景自身も異説として退けている。

■良質な史料の記述

 次に、良質とされる史料によって、光秀の最期を確認しておこう。

 『公卿補任』によると、6月14日に光秀が醍醐(京都市伏見区)の辺りに潜んでいるところを探し出されて斬首となり、本能寺(京都市中京区)で首を晒されたと記すが、実際に首を晒されたのは粟田口だったようだ。

 『言経卿記』はもっと詳しく、光秀が醍醐の辺りに潜んでいるところを郷人が討ち取って、首を本能寺に献上したという。6月17日、光秀の家臣・斎藤利三は近江堅田(滋賀県大津市)に潜んでいるところを探し出され、京都市中に乗り物で移動し、六条河原で斬られた。

 7月2日、光秀と利三の首は残酷にも胴体と接続させて、京都粟田口で磔にされたという。そのほか光秀方の将兵の3000余の首については、首塚を築いたと書かれている。

 『兼見卿記』の記述も具体的である。光秀が一揆(土民)に討ち取られたのは醍醐で、京都所司代・村井貞勝の一門衆で家臣の村井清三が織田信孝のもとに首を持参したと記す。

 その後、光秀の首は本能寺に晒されたという。斎藤利三の件は『言経卿記』と同じで、近江堅田で捕らえたのは、近江の土豪・猪飼半左衛門だった。

 光秀と利三の首が晒されたこと、首塚が築かれたことは『言経卿記』の記述と同じで、奉行を務めたのは桑原次右衛門と村井清三だった。なお、光秀と利三の首塚は、粟田口の東の路次の北に築かれたと記している。

 そのほかに良質な史料とされる『多聞院日記』『華頂要略』なども、ほぼ同じことを書いている。残念ながら、光秀が山崎の戦い後に死んだのは確実なことなのだ。

 以上のとおり、光秀が亡くなったという一次史料の記述には一貫性があり、従うべきであろう。その後、居城の坂本城も炎上し、光秀の一族や家臣も非業の死を遂げたのである。

 したがって、光秀が生き延びたという説を信じている人はいないだろうが、いずれにしても妄説として退けるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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