Yahoo!ニュース

【「麒麟がくる」コラム】本能寺の変直後の光秀による苛烈な落人狩り。諸将はどこで何をしていたのか。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の変直後、明智光秀は織田信長らの遺骸を探し、落人狩りを行った。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「麒麟がくる」では、特に本能寺の変直後の明智光秀や諸将の動きが描かれていなかった。いったい、どのような状況になっていたのかを確認することにしよう。

■本能寺の変直後の状況

 本能寺の変後、まず光秀が取り掛かったのは、信長と信忠の遺体の確認、そして信長方の将兵の追尾だった(落人狩り)。光秀の心境になれば、信長と信忠が何らかの方法で脱出した可能性もあるので、遺体が見つかるまでは安心できなかったであろう。

 しかし、信長と信忠の遺体は、ついに確認できなかった。光秀には、いささかの不安が残ったかもしれない。遺体が見つからないのも無理がない。焼死体になってしまえば、DNA検査などの現代の科学的な手法を用いない限り、信長の遺骸を確定するのは困難だっただろう。

 京都市中における織田方の落人狩りも丹念に行われた(『信長公記』など)。明智軍は織田方の部将を見つけると殺害し、光秀のもとにその首を差し出した。当時、落人狩りの慣行があったので、明智軍以外の者が捕らえることもあっただろう。死体は京都市街に打ち捨てられ、光秀の面前には首が山のように積み上げられたという。

 本能寺の変が勃発したことによって、洛中は不安と動揺で満ち溢れていたが、光秀は探索の手を緩めることはなかった。この状況に不安を隠しきれない本能寺や二条御所付近の都市民は、大挙して御所に押し寄せた(『天正十年夏記』)。御所は、安全地帯であると認識されていたからである。

 彼らは御所内に小屋を作り、難を逃れようとした。光秀はこの動きを察知し、京都市中を焼き払うことはないと宣言し、明智軍が人々に危害を加えたら、これを殺害すると明言した。その後、いったん光秀は居城のある坂本(滋賀県大津市)へ戻り、摂津方面の動きを警戒して、勝龍寺城(京都府長岡京市)に配下の三沢秀次を置いた。

■織田方の諸将の動向

 光秀は信長を討伐したものの、いつまでも勝利の余韻に浸っている時間はなかった。光秀には政権構想があったという論者もいるが、とても「ポスト信長」の政権構想や政策があったとは考えられない。その後の光秀の動きを確認することにしよう。

 光秀が急がねばならない理由は、次の2点に集約されよう。まず、第一に光秀の味方となる勢力を募り、いち早く臨戦態勢を整えること、第二に信長に代わる権力者として、京都支配を円滑に進めることだった。では、各地で戦っていた信長配下の勢力は、本能寺の変の前後にどのような状況だったのか次に示しておこう。

(1)北陸――柴田勝家を筆頭にして、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が加賀、能登、越中の平定に臨んでいた。6月3日には、越中魚津城(富山県魚津市)を陥落させた。

(2)中国――羽柴秀吉が備中高松城(岡山県北区)を攻囲しており、変の前後は和睦に腐心していた。

(3)関東――滝川一益が上野厩橋(群馬県前橋市)に滞在していた。

(4)四国――5月29日の時点で、織田信孝以下、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄が摂津住吉(大阪市住吉区)およびその周辺で待機しており、6月3日に四国渡海の予定であった。

(5)摂津――中国方面の救援に向うべく、中川清秀、高山重友(右近)らが待機していた。

 このような各部将の配置を考えると、光秀が摂津方面に備えたというのは、ある意味で妥当であったのかもしれない。北陸、中国、関東方面の帰還は、早々には難しかったと考えられるからである。家康は堺(大阪府堺市)で茶の湯三昧であったが、信長横死の一報を聞き、ほうほうの体で逃げ出した(神君伊賀越え)。

■討ち続く混乱

 安土城では、信長横死の悲報が届くと大混乱に陥った。ここで、活躍したのが蒲生賢秀である。賢秀は織田家の者たちを引き連れると、自身の居城である日野城(滋賀県日野町)へと向った。

 この直後、光秀が安土城(滋賀県近江八幡市)に入城したが、残された金銀を惜しみなく、将兵たちに与えている。その後、光秀に付き従った近江の国衆たちによって、長浜城(滋賀県長浜市)など近江の諸城を次々と落城させた。いち早く光秀は、近江を配下に収めたようである。

 また、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかった。同年6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長父子が討ち果て、同じく2日に大坂で信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(「三原浅野家文書」)。

 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。ほかにも、別所重棟が叛旗を翻して光秀に与し、丹波、播磨の牢人衆と三木城(兵庫県三木市)に籠ったという、根も葉もない誤った情報も伝わっていた。このような情報の錯綜は小早川氏だけでなく、各地であったに違いない。

 このように本能寺の変が終わってもすぐに混乱が鎮まることなく、また正しい情報がなかなか得られなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事