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【「麒麟がくる」コラム】ああ無念の最期!織田信長はいかにして本能寺で自害に追い込まれたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の織田信長公廟。燃え盛る炎のなか、信長は本能寺で無念の最期を遂げた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長の最期が見事に描かれていた。実際、信長はいかにして本能寺で自害に追い込まれたのか、ドキュメント風にたどってみよう。

■本能寺を出発した明智光秀

 天正10年(1582)6月1日夜、亀山城(京都府亀岡市)を出発した明智光秀は、備中高松城(岡山市北区)で対陣中の羽柴(豊臣)秀吉の救援に行かず、進路変更をして織田信長のいる本能寺に向かった。以下、『川角太閤記』『惟任謀反記』などの記述から、その行程を確認しておこう。

 本能寺を目指した光秀は、桂川に差し掛かったころ、全軍に(1)馬の沓を切り捨てること、(2)徒武者は足半(踵部分がない草履)に履き替えること、(3)鉄砲隊の者は1尺5寸に火縄を切って、すぐ撃てるようにしておくよう命令を下した。すべて臨戦態勢を整えるもので、光秀は信長を討つことに迷いはなかった。

 光秀軍は丹波口(京都市下京区)から京都に侵攻すると、四条坊門西洞院の本能寺を目指した。当当時の下京は、周囲が堀や土塀で囲まれており、木戸門が設けられていた。光秀軍の大将・斎藤利三は、木戸門をくぐるときに幟や旗印が引っかかってらないよう、注意深く木戸門から入り本能寺へ向かった。この頃には、もう6月2日になっていた。

 一方の信長は、光秀軍が攻めてくるとは夢にも及ばず、夜には子の信忠と語らっていた。側には近習や小姓などもおり、楽しいひと時を過ごしていた。信忠は夜が深くなったので本能寺を辞去し、宿所の妙覚寺(京都市上京区)に戻った。その後も信長は女性を召し寄せて歓談していたので、明らかに油断していた。

 光秀は途中で控え、明智光遠らや斎藤利三を先頭にして、本能寺へと迫った。そして、将兵を四方の部隊に分けると、本能寺の宿所を取り囲んだ。夜が明けそうな頃、将兵は合壁を引き破り、門木戸を打ち壊すと、一斉に信長のいる宿所に乱入したのだ。

 信長は光秀の襲撃をまったく予想しておらず、配下の有力武将は東国、西国の反信長派を討伐するため出陣中だった。おまけに信長の供をしていた人々は、京都市中の各所に出掛け、遊興に耽っていた。番所に詰めていたのは、わずか100名余の小姓に過ぎず、警備はかなり手薄だったのだ。

■戦いがはじまる

 6月2日未明、本能寺の四方を取り囲んでいた光秀の軍勢は、ついに本能寺を襲撃。最初、信長も小姓衆も下々の者たちの喧嘩と考えたが、どうもそうではないことに気付いた。光秀軍は鬨の声をあげ、本能寺に鉄砲を撃ち込んできたからだ。どう考えても戦闘の始まりであった。

 このときの信長と森蘭丸との会話を次に再現しておきたい(『信長公記』)。

信長「いかなる者の企てか?」

蘭丸「明智の者と思われます」

信長「是非に及ばず」

 この「是非に及ばず」という言葉は、これまで「仕方がない」あるいは「光秀ほどの武将が起こした謀反なので、脱出は不可能だ」などの解釈がされてきた。一種の諦めのようなもので、もはや手遅れだった。

 信長配下の武将たちは、奮戦した。面御堂の御番衆は、信長のいる御殿へと馳せ参じた。御厩では、新参の矢代勝介ら24名が討ち死にした。勝介は関東出身で馬術に長けていたが、無念にも戦死したのだ。森蘭丸らの小姓衆も奮戦したが、御殿内で討ち死にした。

 一方、湯浅甚介、小倉松寿の2人は、町の宿で本能寺が襲撃されたとの一報を聞き、直ちに本能寺へ急行して敵に討ち入ったが、討ち死。甚介は桶狭間の戦いや長篠の戦いにも出陣した古参だったが、無念の最期を遂げた。なお、松寿は、小倉右京亮と信長の側室お鍋との間にできた子だった。御台所口で比類なき働きを見せ、一人奮闘したのは高橋寅松だった。

■信長の最期

 信長配下の武将が奮闘したとはいえ、所詮は多勢に無勢で、わずかな時間の間に信長方の形勢は不利になった。最初、信長は弓を取って矢を2・3度放ったが、しばらくすると弓の弦が切れたので、今度は槍を手に取って戦った。信長は肘に槍で傷を負うと引き下がり、女中たちに退去を命じた。もはや御殿には火が広がっていた。

 すると、信長は殿中の奥深くに入り、内側から納戸を閉じると自害した(『信長公記』)。享年49。その後、本能寺は紅蓮の炎に包まれた。

 『惟任謀反記』の記述は、もう少し具体的である。信長は弓を取って広縁に出ると、たちまち5・6人を射た。そして、十文字の鎌で数人の敵を打ち倒すと、門外まで出て行って敵を追い散らしたという。しかし、戦いの中で傷を負い、そのまま宿所内に戻ったと記している。

 フロイスの『日本史』には、信長の最期について違った書き方をしている。明智軍は御殿の門に到着すると守衛を殺したが、本能寺では誰もが光秀の謀叛を疑う者がおらず、抵抗する者すらいなかったという。

 明智軍は寺内へあっさり入ると、手と顔を洗い終わり、手拭いで体を拭く信長を発見。将兵が信長の背中に矢を放つと、信長は矢を引き抜いて薙刀で防戦した。やがて、信長が手に銃弾を受けると、奥の部屋に入って戸を閉じたと伝える。

 こうして信長は無念のうちに横死し、居所だった本能寺は焼け落ちたのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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