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【「麒麟がくる」コラム】朝廷は織田信長から暦の変更を要求され、明智光秀に信長殺害を指示したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
信長は朝廷に別の暦を使うよう要求したというが、それは事実なのだろうか。(提供:Globe_Design/イメージマート)

 今回も「麒麟がくる」の補足をしたい。一説によると、織田信長は朝廷に暦の変更を要求したので、危機感を抱いた朝廷は明智光秀に信長の殺害を指示したという。これが朝廷黒幕説の一因なのであるが、正しいといえるのであろうか。

■暦の変更

 信長と朝廷の関係で問題になったのは、暦の一件だ。暦を決定することは、時間の支配に関わる朝廷にとって重要なことで、決して小さな問題ではなく、朝廷黒幕説の根拠の1つにもなった。以下、経緯を確認しておこう。

 天正10年(1582)1月、信長は陰陽頭・土御門久脩が作成した宣明暦(京暦)の代わりに、尾張国などで使用していた暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。武家が暦について要求するのは極めて異例でもあり、朝廷による暦の決定権に介入したので、信長が朝廷を圧迫したと解釈されてきた。

 宣明暦は中国から伝わった暦法で、貞観元年(859)に日本へ伝来し、江戸時代の貞享元年(1684)までの約800年にわたって利用された。しかし、宣明暦は日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、必ずしも正確ではないという問題があった。

 信長が新しい暦を用いるよう、要望した理由を記しておこう。宣明暦は天正11年(1583)正月を閏月に設定していたが、信長が要望した暦は天正10年(1582)12月を閏月としていた。信長は要望した暦に合わせ、天正10年(1582)12月を閏月に設定するよう申し入れたが、その理由は不明である。

 天正10年(1582)2月、朝廷で信長の要望を検討した結果、宣明暦のとおり天正11年(1583)正月に閏月を設定した(『天正十年夏記』)。いったん信長は納得したが、この問題を再び蒸し返した。

■信長の再度の要求

 本能寺の変の前日の天正10年(1582)6月1日、公家衆が信長の滞在する本能寺を訪問すると、信長は公家衆に宣明暦から新しい暦に変更するよう再び要望した。やはり信長が変更を要望した理由は明確に伝わっておらず、暦の変更の理由は長らく謎として議論されてきた。

 桐野作人氏の研究によると、信長が暦の変更を迫った理由は、宣明暦が天正10年(1582)6月1日の日食を予測できなかったからだと指摘されている。

 信長が日食を把握できなったことを問題視したのは、当時の人々が日食や月食を不吉であると恐れたからである。朝廷は日食や月食が起こると、筵で御所を覆い、不吉な光から天皇を守った。

 信長は宣明暦の不正確さを悟り、天皇を不吉な光から守るため、暦の変更を強く主張したのである。この考え方が正しいならば、信長は天皇の身を心配したのであって、慣れ親しんだ暦の使用を朝廷に強要していない。この説が正しいならば、朝廷黒幕説が成り立つ余地はない。

■さらに進化した研究

 さらに遠藤珠紀氏の研究では、信長が暦の変更を主張した理由について、次のような見解が示された。

(1)信長が要求したのは「三島暦」ではなく、美濃尾張の暦者が作成した暦であり、彼らは伊豆三島社の配下の者ではなかった。

(2)地方暦が流布することで、朝廷の暦と地方暦との間で、閏月の有無、七曜、節季、月の大小などで誤差が生じた。

(3)天正10年(1582)は暦を作成するにあたって、閏月の設定などで複雑な調整が必要だった。

(4)地方暦は官暦である宣明暦を無視しておらず、むしろベースにしていた。

 加えていうならば、近衛家に残った天正10年(1582)の暦(『後陽成院宸記』紙背)は6月1日に日食になることを予報しており、それを受けた朝廷は祈禱を催した(天理図書館「諸社祠官伝授之案」)。

 日食の日を宣明暦が正しく予報していたならば、信長が朝廷に暦の変更を要望した理由は当たらないことになり、話は振り出しに戻ってしまう。では、なぜ信長は朝廷に暦の変更を要望したのか。

■わからなくなった結論

 1つの見解として、当時は各地の大名が暦の統一を行っており、信長も支配地域における暦の統一の必要性を痛感していた。そこで、信長は身近だった尾張の暦を要望したと考えられるので、暦の問題は信長と朝廷の対立問題へと収斂させる必要はないという。

 結局、信長の暦の変更を要望した意図はわからなくなっったが、暦が抱える統一性の問題やこれまでの信長の朝廷への親身な対応や考え方を考慮すれば、暦問題を朝廷への圧迫と捉える必要はなさそうだ。むろん、朝廷黒幕説の根拠にもならない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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