【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の丹波八上城攻撃。あまりに残酷な光秀の所業とは
■明智光秀の丹波攻略
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかで、すでに丹波攻略は取り上げられてきたが、八上城(兵庫県丹波篠山市)攻撃については取り上げられていなかった。注目されるのは、八上城攻撃における光秀の残酷な所業である。
■再び丹波攻略へ
天正6年(1578)12月、明智光秀は波多野秀治ら三兄弟を討つべく、再び八上城に向かった。ここから、八上城の兵糧攻めが開始される。ところが、光秀は八上城攻撃からいったん離れ、居城ある坂本(滋賀県大津市)へ戻り、天正7年(1579)1・2月を茶会などをして過ごした。
光秀が本格的に八上城の攻略に取り組んだのは、同年2月28日のことである。すでにそれ以前の段階で、光秀は八上城の周囲に付城を築き、通路を防いだことがうかがえる(「楠匡央家文書」)。光秀は、近々に八上城が落城するだろうとも述べている。
同年2月、波多野氏は兵庫や(屋)惣兵衛なる商人に対し、徳政や関料免除などの流通上の特権を与えた(「大阪城天守閣所蔵文書」)。この措置は、波多野氏が来るべき籠城戦に備え、武器・弾薬および食料の調達を企図したものだろう。波多野氏も徹底抗戦の態度で、光秀の襲来を待ち構えた。
同年1月にはすでに八上城周辺で合戦が起こっており、光秀方の明智(小畠)永明が討ち死にした(「小畠文書」)。同年2月6日、永明の遺児・伊勢千代丸が幼少だったので、光秀は13歳まで森村左衛門尉が名代を務めることを認め、遺族および森村氏から誓紙を取った。
同年3月、夜間に岩伏で合戦があり、大芋氏が軍功を挙げた。光秀は恩賞として大芋氏に対し、望みの所に100石の知行を与えると約束している(「丹波志」所収文書)。
■残酷な光秀
戦いは、光秀に有利に進んだ。天正7年(1579)と比定される、光秀の書状(和田弥十郎宛)には詳しい戦況が述べられている(「下条文書」)。以下、内容を確認しよう。
八上城内からは、城を退くので命を助けてほしいと懇望してきた。すでに籠城した兵卒は、400~500人が餓死していた。城から運ばれてきた餓死者たちは、顔が青く腫れて、人相が人のようでなかったという。
しかし、光秀は5~10日ほどで八上城を討ち果たし、1人も逃さないよう、付城に加えて塀、柵、などを幾重にもめぐらした。八上城の落城後、光秀は丹後に出陣するよう、信長から命じられていたからだ。
同年5月6日の光秀の書状には、さらに戦いが進展した様子がうかがえる(「小畠文書」)。八上城の本丸はすでに焼き崩れた状況だったが、光秀はすぐに城へ攻撃することは控え、敵兵を徹底して殺戮する方針を取った。また、乱取り(兵卒による略奪)がはじまると、敵兵を討ち漏らしてしまうので禁止された。
光秀は敵の首はことごとく刎ね、首の数に応じて恩賞を与えることにした。徹底して敵を討ち取ろうとしたのは、信長の指示ではなく光秀の考えだろう。それは、光秀がさんざん丹波攻略に苦労したからではないだろうか。
『信長公記』によると、八上城内は飢えで苦しむ人が苦しい生活を強いられていたという。最初は草や木の葉を食べていたが、それが尽きると、今度は牛馬を食べて飢えにを凌いだ。最後は城内の兵が空腹を我慢できずに城外に食糧を求めて飛び出すと、たちまち光秀軍の兵に討ち取られたという。
■光秀の勝利
長い攻防の末、光秀は城内の厭戦ムードを察知して、調略によって波多野秀治ら三兄弟を捕縛することに成功したのである。
同年6月1日、通算すれば数年にわたる八上城の攻防は終わり、波多野秀治ら三兄弟は降伏した。秀治ら三兄弟は亀山(京都府亀岡市)から入洛し、京都市中で見せしめのため引き廻しにされた。
その後、山中越えのルート(京都市左京区から比叡山を抜け、大津市志賀に抜けるルート)から坂本(滋賀県大津市)へ送られ、同年6月8日に安土城(滋賀県近江八幡市)下の慈恩寺で磔刑に処されたのである(『兼見卿記』)。
実際の光秀は大河ドラマで描かれるように、心優しい人物ではなかったようだ。