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【深掘り「麒麟がくる」】正親町天皇が光秀に信長暗殺を示唆? 黒幕か検証

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所建春門。織田信長と朝廷は対立していたというが、事実とみなしてよいのか。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第41回「月にのぼる者」は盛りだくさんだったが、終盤に差し掛かって、朝廷と織田信長との対立が注目された。朝廷と信長は、本当に対立していたのだろうか。

■第41回「月にのぼる者」を振り返って

 第41回「月にのぼる者」の終盤を簡単に振り返っておこう。

 織田信長(役・染谷将太さん)は安土城を訪れた明智光秀(役・長谷川博己さん)に対し、正親町天皇(役・坂東玉三郎さん)の譲位が進まないことへの不満をこぼす。さらに「京におけるわし(信長)の風評は上々」と語り、疑義を示す光秀の言葉をさえぎった。光秀は平蜘蛛の釜を信長に献上し、これを持つ者として志高く心美しくある覚悟を求めたが、信長は金に換えると受け流した。

 光秀は三条西実澄(役・石橋蓮司さん)から、信長が天皇に譲位を迫ったうえ、嫌がらせに右大将の職を辞したことで「信長殿は己の気分で帝も朝廷も変えてしまおうと思うておる」と懸念していることを聞いた。

 その後、光秀は天皇と対面を果たす。天皇は「月は遠くから眺めるのが良い」と先帝の教えを語り、「なれど力ある者は皆、あの月へ駆け上がろうとするのじゃ。信長はどうか。こののち信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」と光秀に命じた。

 朝廷は信長と対立していたかのように見えるが、その真相について深掘りすることにしよう。

■織田信長は正親町天皇に譲位を迫ったか

 織田信長が正親町天皇に譲位を勧めたことについては、真っ向から異なる2つの見解よく知られている。次に、その要点を示しておこう。

(1)信長は正親町天皇に譲位を迫り、朝廷を圧迫した。

(2)信長から譲位の申し出を受けた正親町天皇は、感謝の気持ちを持った。

 (1)は信長が朝廷をないがしろにしていたという評価であり、(2)は信長が朝廷に奉仕しようとしていたという評価である。まったくの正反対な評価だ。

 (1)の評価は信長と天皇は対立していたという視点で、のちに朝廷が背後で明智光秀を操り、本能寺の変を引き起こさせたという、朝廷黒幕説の1つの根拠になった。

 以上のように、信長による譲位の勧めはまったく異なった評価が与えられた。まず、問題を読み解く前提として、正親町天皇の譲位問題の経過を取り上げることにしよう。

■譲位問題の経緯

 天正元年(1573)12月3日、信長は正親町天皇に譲位を執り行うよう申し入れを行った(『孝親公記』)。正親町天皇は信長からの申し出を受け、関白・二条晴良に譲位の時期について勅書を遣わしたので、快諾したと考えられる。

 勅書を受け取った晴良は、信長の宿所をすぐに訪問すると、家臣の林秀貞に正親町天皇が譲位を希望している旨を申し伝えた。晴良の申し入れを聞いた秀貞は、「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰(対処)いたしましょう」と回答した。

 晴良が申し入れた具体的な内容は、詳しく記されていないが、譲位の日程や費用の問題などだったと考えられる。正親町天皇が譲位に乗り気だったのは、疑う余地がない。

■譲位できなかった戦国時代の天皇

 ところで、戦国・織豊期における、譲位の問題はどう捉えられていたのだろうか。

 応仁・文明の乱以降になると経費の負担が重くのしかかり、天皇が即位式を行えないことが常態化した。後土御門、後柏原、後奈良の三天皇は、長期にわたって即位式が挙行できなかった。本来、その費用の一部を負担するのは室町幕府だったが、もはや有名無実の存在だった。

 後土御門、後柏原、後奈良は生前に皇太子に天皇位を譲ることなく、現役の天皇のまま亡くなった。それは、当時の人々にとって、驚くべき事態だった。

 現代においては、院政=「悪」と思われているが、実際はそうではない。天皇は早々に皇太子に位を譲って上皇となり、院政を敷くのが当時のスタンダードだった。それは、幕末まで続くのだ。

■信長に感謝した正親町天皇

 では、正親町天皇は信長から譲位を勧められて、どのように考えたのだろうか。正親町天皇は、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べた(『東山御文庫所蔵文書』)。

 正親町天皇は、譲位の実現を大変喜んでいるのだ。戦国期の天皇は上皇になれなかったことが不本意だったので、譲位を歓迎するのは当然のことといえる。

 なお、譲位に掛かる費用は、当然、信長が負担を申し出たものと考えられる。早速、朝廷では即位の道具や礼服の風干(陰干し)を行い、譲位に備えた(『御湯殿上日記』)。では、譲位は実現したのだろうか。残念ながら、信長の存命中に譲位は実施されなかった。

 信長が義昭と決裂して以降、義昭を中心にして信長包囲網が各地に形成された。これにより、信長は各地に出兵するありさまで、とても譲位どころではなかったのではないだろうか。

 いずれにしても、信長は正親町天皇に譲位を迫ったのではなく、勧めたというほうが正しい。それは、信長が嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込んだものではない。事実は逆で、譲位を望んでいた正親町天皇の意を汲んで、信長が勧めたと考えてよい。

 結論を言えば、従来の説で指摘されたように、信長が譲位を通して天皇を圧迫したとか、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、おおむね否定されている。正親町天皇は信長から譲位の提案を受けて、喜んだというのが事実だった。

 したがって、信長による譲位問題は、朝廷黒幕説の根拠にはならない。同時に大河ドラマで三条西実澄は「信長が譲位を迫った」と怒っていたが、それはありえない話といえよう。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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