Yahoo!ニュース

【「麒麟がくる」コラム】織田信長の先祖は平氏だったのか。その真相を諸史料から探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長の先祖をたどると平氏であるというが、真相はいかに!?(提供:アフロ)

■織田信長の先祖は平氏?

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、染谷将太さんが織田信長を好演している。織田信長は先祖をたどると平氏につながるというが、疑問視もされている。

 以下、織田信長の出自について考えることにしよう。

■織田家の系図

 織田家の系図は『織田系図』(『続群書類従』第六輯・上)、『系図纂要』などが伝わっており、それらの系図では織田家の先祖が平資盛(すけもり。重盛の次男)になっている。では、具体的にどのようなことが書かれているのか、その概要を書いておこう。

 元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦い(最後の源平合戦)において、資盛は亡くなった。資盛には寵妾がおり、親真(ちかまさ)という子がいた。親真は母とともに近江津田郷(滋賀県近江八幡市)に逃れ、母は豪族と結婚した。

 あるとき、越前織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。その後、親真は神職を継ぎ、織田家の祖となったというのだ。親真は資盛の正室ではなく、寵妾の子であるというのがポイントである。

 のちに織田家が越前や尾張などの守護・斯波氏に仕え、守護代を務めたのだから、話の辻褄は合う。信長は、親真の17代目の子孫であると言われている。

■記録にも書かれた織田家の子孫

 僧侶の兎庵(とあん)が記録した『美濃路紀行』には、天正元年(1573)9月に岐阜を訪れた記録がある。そこには信長の家系について、「平重盛の次男(資盛)の後胤(子孫)」と書かれている。

 この記述内容から、信長が隆盛を極めつつあった同時代においても、織田家の祖が平資盛だったという認識が認められる。これは、信長が意図的に流したものなのか否か、今となってはわかっていない。

 現段階において、この記述は噂話に過ぎないと考えられている。したがって、織田家の先祖が平氏であったという説は、誤りとして退けられているのだ。では、織田家の先祖は、誰なのか。

■藤原姓を名乗っていた織田一族

 永正15年(1518)1月、尾張国下四郡の守護代・織田達勝(みつかつ)は、円福寺(名古屋市熱田区)に禁制(軍勢の禁止事項を列挙した文書)を与えた(「円福寺文書」)。そこには、「藤原達勝」と署名されている。

 天文22年(1553)6月吉日付の「菅原道真画像墨書銘」には、「藤原織田勘十郎」とある(「熱田神宮所蔵文書」)。「藤原織田勘十郎」とは信長の弟の信勝(信行)のことで、やはり藤原姓だ。

 姓と名字については、説明が必要だろう。そもそも姓とは、天皇から与えられるもので、「源平藤橘」が有名である。しかし、同じ姓の者が増えていくと区別がつかなくなり、混乱するのは明らかだ。

 そのような事情から、武将らは本拠とした土地の名を名字にする。たとえば、足利氏は姓が「源」であるが、名字は下野国足利荘(栃木県足利市)に由来する「足利」としたという具合である。

■藤原姓だった信長

 実は、信長も天文18年(1549)11月に熱田八ヵ村(名古屋市熱田区)に宛てた禁制では、「藤原信長」と署名している(「加藤文書」)。つまり、信長自身も藤原姓が本姓であることを認めている。では、いつ頃から平姓を名乗ったのだろうか。

 大師堂(岐阜県郡上市)所蔵の銅製鰐口(県指定文化財)には、表面に「元亀二年〈1571〉辛未六月吉日」、裏面に「信心大施主 平信長(=織田信長)」の銘文が刻まれている(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)。この頃には、信長も平姓を使っていた。

 天正2年(1574)3月28日、信長は従三位に叙され、『公卿補任』には「平信長」と書かれている。この時点において、信長は公式に藤原姓を捨て、平姓に変えたと考えられる。というのも、『歴名土代』には、藤原姓から平姓に変わったように記されているからだ。

■忌部氏という説と平姓の意義

 織田氏の先祖は七条院領織田荘(福井県越前町)の荘官であり、同荘内の織田劔神社の神官だったという説がある。そして、織田氏の本姓は、忌部(いんべ)氏であると指摘されている。

 劔神社は敦賀郡伊部郷に所在し(『和名類従抄』郷里部)、それは越前町織田地区あたりだったというのだ。そして、伊部は「忌部」と同じことで、織田劔神社の社司は忌部氏だったと言われている。

 織田荘に関しては不明な点が多いものの、本領主が公家の高階宗泰だったこと、のちに同荘は禁裏(皇室)領から妙法院領になったことが判明する。織田荘の中心には劔神社があり、その祀官が豪族的存在で荘官を務めていたという。

 ところで、信長は途中から平姓を用いていたが、その理由を示した明確な史料はない。かつて、信長が藤原姓から平姓に改姓したのは、源平交代思想を利用するためだったという説が提唱された。

 源平交代思想とは、源氏と平家が交代して政権を担うという思想だ。鎌倉時代は、将軍家の源氏から執権の北条氏(平氏)に変わった。そして、南北朝には執権の北条氏(平氏)から足利氏(源氏)に交代した。

 つまり、戦国時代は、足利氏(源氏)から織田氏(平氏)に政権が変わるという発想だった。信長は天下統一を行うに際して、源氏の室町幕府の足利将軍に代わるため、あえて平姓に改姓したということになろう。

 しかし、当時の人々が源平交代説思想を本当に信じていたのか不明である。したがって、現時点で源平交代説思想については懐疑的な意見が多い。ただ、少なくとも信長の先祖が平氏でないことはたしかだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事