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【深掘り「麒麟がくる」】織田信長、本願寺の蜂起に仰天していた 対立の真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長は、本願寺と10年にわたる抗争を続けた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第39回「本願寺を叩け」は、徐々に織田信長の暴走が目立ってきた。その中で注目すべきは、信長と本願寺との抗争であろう。

■第39回「本願寺を叩け」を振り返って

 第39回「本願寺を叩け」の内容を簡単に振り返っておこう。

織田信長(役・染谷将太さん)は次々と戦いに勝利をして、公家に交じって高い官職を手にする。その一方で三条西実澄(役・石橋蓮司さん)は、信長が正親町天皇(役・坂東玉三郎さん)を蔑ろにする態度に強い危機感を示す。そのような状況下において、ついに信長は本願寺と交戦。明智光秀(役・長谷川博己さん)も戦いに駆り出されるが、その最中に妻の煕子(役・木村文乃さん)が帰らぬ人になった。

 大河ドラマでは、信長と本願寺の戦いについての説明が乏しかったので、以下、深掘りすることにしよう。

■本願寺とは

 元亀元年(1570)以降、信長は約10年にわたって、本願寺との抗争を繰り広げた。本願寺とは、鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗(一向宗)の一本山だ。本願寺は応仁元年(1467)に起きた応仁・文明の乱を境にして、蓮如が教団を拡張して影響力を持ち、戦国大名が恐れるような存在になった。

 では、信長と本願寺との戦いは、どのように考えられているのだろうか。

 通説的に言うと、本願寺は民衆勢力を結集し、武家勢力の代表である信長に戦いを挑んだとされ、三河でも徳川家康に果敢に戦いを挑んだ。また、信長は一向一揆を殲滅することを最終目標にしていたと考えられ、その戦いは最終局面だったといわれている。

 とはいえ、現段階では上記の見方が疑問視されているので、最近の研究を確認することにしよう。

■最新研究による本願寺

 そもそも本願寺は室町幕府に属しており、幕府には本願寺を担当する奉行人が存在した。彼ら奉行人は幕府と本願寺の間を取り次ぐ、重要な職責を担った。本願寺は加賀国を支配していたので、幕府からは加賀の大名とみなされ、内裏の修理料の負担などを命じられていた。

 一向一揆と言えば、大名と対立した存在であると考えられてきたが、それは正しい評価ではない。毛利氏が信長と敵対した際、軍勢に加わったのが安芸門徒だ。ときに、一向一揆は大名に与同する勢力となった。むろん、そうなったのには理由がある。

 本願寺門徒は大名に対して、対立よりも友好的な関係を望んだ。本願寺は各地の本願寺門徒を支援すべく、大名との良好な関係を築き、その保護を依頼していた。本願寺は門徒が安心して信仰をするうえで、大名と良好な関係を結ぶことが求められたのだ。

 上記の視点から、改めて信長と本願寺との戦いを考えてみよう。

■本願寺の蜂起に「驚いた」信長

 元亀元年(1570)9月、本願寺は足利義昭・織田信長に戦いを挑んだ。信長はすでに越前朝倉氏、近江浅井氏と交戦に及んでいたが、敵対していた三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)が摂津の野田・福島付近(大阪市福島区)に陣を敷いて本願寺に加勢していた。

 本願寺は、もともと三好三人衆と良好な関係にあった。また、三好三人衆に与する大名(朝倉氏、浅井氏、六角氏など)は、義昭に対して反旗を翻すという事情があったので、本願寺は信長と義昭に戦いを挑んだのだ。

 通説では、本願寺の顕如が信長から無理難題を吹っ掛けられ、本願寺を破却するとまで言われたので蜂起したとされるが、事実と相違する。実際は顕如が諸国の門徒に信長への決起を促す檄文を送り、近江浅井氏との同盟を確認していた。一方の義昭は朝廷を通して、一揆の蜂起を止めさせるよう依頼していたのだ。

 いざ本願寺が信長を攻撃すると、信長は予想外のことで大いに驚いたという。つまり、本願寺は信長に抵抗するために戦いを挑んだのではなく、自らが先に信長を倒すべく仕掛けたものだった。元亀3年(1572)になると、本願寺は信長と敵対していた武田信玄と結び、さらに激しく対立した。

■戦いの結末

 しかし、天正元年(1573)に信長が義昭を追放すると、状況は一変。次に本願寺は義昭を支援し、引き続き信長に戦いを挑んだ。ただ、同年に本願寺は頼みとする朝倉氏、浅井氏が信長に滅亡に追い込まれたので、信長と1度目の和睦をする。

 天正2年(1574)1月に越前の一向一揆が蜂起すると、本願寺は信長との戦いに再び挑み、義昭も側近に対して信長への決起を促した。しかし、同年に伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆が信長に敗れ、徹底して殲滅された。その翌年の天正4年(1576)には、同じく越前の一向一揆も完膚なきまでに殲滅。これにより本願寺は信長に屈し、2度目の許しを得ることになった。

 天正4年(1576)に毛利氏が義昭を推戴して信長に叛旗を翻すと、再び本願寺は信長に対して決起した。ところが、天正8年(1580)、本願寺は信長に屈し、ついに大坂本願寺(大阪市中央区)から退去した。重要なことは、信長は本願寺の解体を志向しておらず、本願寺の降伏後も教団の存続を許したことだ。

 本願寺は将軍や諸大名との関係から信長に叛旗を翻したが、信長は決して本願寺の息の根を止めようとはしなかった。信長は本願寺が歯向かったから戦っただけであり、神や仏を恐れなかったからではない。信長に従えば問題はなく、以後、信長は本願寺と良好な関係を保った。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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