Yahoo!ニュース

【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は本能寺にいなかったのか。新出史料について考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺で織田信長は自害したが、現場には明智光秀がいなかったという説が提起された。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■新説の登場

 天正10年(1582)6月、明智光秀は本能寺を急襲し、織田信長を自害に追い込んだ。その際、光秀がどこにいたのかは、詳しくわかっていない。

 『惟任謀反(退治)記』という史料によると、斎藤利三ら重臣が本能寺の宿所を取り巻いた際、光秀は途中で控えたと記す。しかし、その「途中」と書かれている場所は、具体的に地名を書いていない。

 新説に拠ると、光秀は本能寺を取り巻いておらず、約8km離れた鳥羽(京都市南区)に控えていたという。この点についてどう考えるべきか、以下、各種報道をもとに検討することにしよう(特に、朝日新聞の記事を参考にさせていただいた。こちら)。

■史料の概要

 最初に、新出史料の概要を確認しておこう。

 新説が書かれている史料は、『乙夜之書物(いつやのかきもの)』(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)といい、3巻から成っている。著者は、兵学者の関屋政春(せきやまさはる。1615-1686)という人物である。政春は、加賀藩の家臣でもあった。ちなみに、史料そのものは、以前から知られていたという。

 本能寺の変に関わる記述は、上巻(1669年に成立)に書かれている。それは、斎藤利宗(光秀の重臣・斎藤利三の三男)が加賀藩士で甥の井上清左衛門に語ったものだ。当時、十六歳だった利宗は、本能寺の変に出陣していた。いうなれば、出陣した本人の証言である。

■書かれていること

 『乙夜之書物』に書かれている重要なポイントは、次の2点に集約されよう。

(1)先発した光秀の重臣・斎藤利三、明智秀満が2000余騎を率い、本能寺を襲撃した。

(2)光秀は、本能寺から約8km離れた鳥羽(京都市南区)に控えていた。

 これまでは先述のとおり、『惟任謀反(退治)記』に光秀が途中で控えたと記すだけで、具体的な場所(あるいは地名)までは書いていなかった。その点、注目すべき記述内容といえよう。

 奥書には政春が息子のために書き残したものであること、そして他人が閲覧することを禁じた旨が書かれている。また、『乙夜之書物』は政春の自筆で書かれたもので、のちに第三者により書き込まれた形跡もないという。

 つまり、当事者の証言を記録しているので、信憑性は高いというのが結論である。

■史実とみなしてよいか

 実は、さまざまな史料を探してみても、光秀が重臣らとともに本能寺の攻撃に加わっていたのか、あるいは後方に控えていたのかは明確に書かれていない。つまり、わからないのだ。

 一般論で考えてみると、明智家の当主たる光秀が命を落とすかもしれない危険を顧みず、最前線で戦ったとはとうてい考えられない。やはり、光秀は本陣を敷いて、そこに控えていたと考えるべきだが、残念ながらどこに本陣を敷いたのかは不明である。

 なお、『兼見卿記』には、光秀自身が本能寺を急襲したように書かれているが、これは「明智軍」と解する可能性も否定できない。記主である吉田兼見は、光秀個人と明智軍を峻別して記録していないことも考慮すべきだろう。

 一方で、『乙夜之書物』は本能寺の変が終わってから、約80年を経過している点に注意すべきであろう。しかも、光秀が本能寺にいなかったという記述は、斎藤利宗が井上清左衛門に語ったものを政春が筆記したものである。政春が直接利宗から聞いたのではなく、間に人を介している又聞きなのだ。

■注意が必要な二次史料の記述

 歴史の研究では、後世に編纂された二次史料は十分な史料批判が必要である。編纂された意図や目的によっては、事実が捻じ曲げられていることも珍しくない。記述内容が一次史料(同時代の書状や日記)で裏付けることができればベストであるが、そうでなければ慎重にならざるを得ない。

 『乙夜之書物』の記述内容も同様で、一次史料で裏付けられない以上、安易に史実として認めるわけにはいかないだろう。おまけに人を介しての情報なので、記憶違いや言い間違い、あるいは意図的に捻じ曲げて伝えた可能性なども考慮する必要がある。

 つまり、「光秀は本能寺から約8km離れた鳥羽に控えていた」というのは要検討事項であり、史実として決定ではないと考える。

 新しい史料(特に二次史料)に基づく見解が公表されると、にわかに賛同されがちである。しかし、特に二次史料の場合はさまざまな問題があるので、注意が必要である。とはいえ、貴重な発見であるので、今後、議論を深めていくべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事