【戦国こぼれ話】今年も女性の時代か。戦国時代を生き抜いた立花誾千代とは
■戦国時代に輝いた女性
現代社会においては、女性の活躍が目覚ましい。それは戦国時代も同じで、女性なくして語るわけにはいかない。その中で注目すべきは、立花誾千代(ぎんちよ)である。
立花誾千代とは、どのような女性だったのだろうか?
■立花誾千代とは
永禄12年(1569)、誾千代は大友宗麟の家臣・立花(戸次)道雪と問注所鑑豊(あきとよ)の娘・仁志姫との間に誕生した。
道雪は37回の戦いのなかで、一度も負けたことがないという猛将であったが、すでにこのとき56才という高齢になっていた。
誾千代は父の影響もあって、幼い頃から文字を学び、そして剣術にも強い関心を示すなど、優れた女性と評価されていた。
道雪には、跡継ぎとなる男子がいなかった。そこで、やがて誾千代を立花家の後継者に据えようと考えるようになった。
■家督を譲られた誾千代
誾千代が7才のとき、ついにそのときがやってきた。天正3年(1575)、道雪は63才になったのを機会にして、立花家の家督を誾千代に譲ったのである。しかし、誾千代だけでは心もとなく、迎え入れる婿が誰になるのかがカギとなった。
そこで、道雪は大友氏の一族で、高橋紹運(じょううん)の子・宗茂を婿の候補とした。偶然ではあるが、2人は同じ年でもあった。
天正9年(1581)、2人は結婚することになり、宗茂は立花姓を名乗ったのである。結婚の際は、主家の大友氏の許可を得ている。
■秀吉の九州征伐
天正14年(1586)、一連の豊臣秀吉による九州征伐に伴い、島津氏の勢力が筑前国に攻め込んできた。
豊臣方の宗茂は立花山城(福岡市東区ほか)を島津氏の軍勢から守り通した。逆に、宗茂は島津氏の軍勢を追いかけて勝利を得るなど、秀吉からも大いに目をかけられた。
戦後、宗茂は柳川城(福岡県柳川市)主に栄転し、13万2000石を与えられた。しかし、この頃から宗茂と誾千代との間は、しっくりといかなくなる。
その原因は誾千代が生まれ故郷から離れることを嫌がったことと、2人の間に子供がいなかったことであったといわれている。
■宗茂の大活躍
一方で、宗茂は秀吉から厚い信頼を受け、文禄元年(1592)からはじまった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で大活躍した。
この間、誾千代は秀吉と深い関係になったという説があるが、これはまったくの虚構であり、実際は宗茂が側室を持ったことに対する不満が鬱積していたというのが真相のようである。朝鮮出兵も、夫婦仲が疎遠となる要因であった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦は、宗茂と誾千代の運命を大きく変えた。宗茂は西軍に属したため、敗者になったのである。
宗茂は加藤清正に預けられ、肥後国にわずか1万石を領するに止まった。誾千代は、約10キロメートル離れた農家に住んだと伝えられている。
■誾千代の最期
誾千代は朝鮮出兵で留守を預かった際、夫の代わりに武装して、敵に備えたといわれている。また、関ヶ原合戦においても、鍋島氏や加藤氏に対抗すべく、武器を取ったという。ただし、いずれもたしかな史料で裏付けられない逸話に過ぎない。
誾千代は深い絶望感から病になり、関ヶ原合戦から2年後の慶長7年(1602)に34歳で没した。あまりに若すぎる死であった。
宗茂は元和6年(1620)に幕府から柳川城主として10万9000石を与えられ、奇跡の復活を遂げた。宗茂は誾千代の菩提を弔うため、良清寺(福岡県柳川市)を建立したのである。