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【「麒麟がくる」コラム】坂東玉三郎が演じる正親町天皇。その苦難の生涯をたどる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
正親町天皇は御所の修繕費を捻出できなかったが、織田信長が支援した。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■重要な役割の正親町天皇

 大河ドラマ「麒麟がくる」で重要な役割を担っているのが正親町天皇である。坂東玉三郎さんの重厚な演技が評判となっている。

 ところで、正親町天皇については、ご存じない人も多いのではないだろうか。今回は、正親町天皇の苦難の生涯をたどることにしよう。

■乱世の天皇

 正親町が誕生したのは、永正14年(1517)。父は、後奈良天皇である。ちょうど戦国時代がはじまって約半世紀を経ており、京都は常に戦火に晒されていた。

 実は、後土御門、後柏原、後奈良の3人の天皇は、早々に譲位して院政を敷くことなく、現役の天皇のままで死去した。これは、当時の常識から考えると異常なことだった。

 天文2年(1533)、正親町は親王宣下を受けると同時に元服した。後奈良が亡くなったのは弘治3年(1557)。しかし、朝廷では葬礼の費用を賄うことができず、三好長慶の支援を受けるまで、約2ヵ月も遺骸が放置されるという厳しい現実があった。

■困難だった即位

 後奈良の没後、正親町は新天皇になったものの、財政難から即位礼はすぐに挙行されなかった。この窮地を救ったのが毛利元就である。

 元就は正親町の要請に応えて、2000貫(現在の貨幣価値で約2億円)の銭を献上した。これにより永禄2年(1559)、正親町は何とか即位礼を挙行できたのである。

■織田信長との関係

 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を推戴して上洛を果たした。古い説では、信長は義昭を傀儡化し、やがては皇位を簒奪する計画だったといわれているが、それは誤りであると指摘されている。

 そもそも信長が上洛したのは、室町幕府を再興させ、天下(=畿内)の政治を安定させることだった。とりわけ朝廷への奉仕は重要だった。

 天正元年(1573)、正親町は信長から譲位を勧められた。これは信長による正親町への嫌がらせと受け止める向きもあるが、それは間違えている。

 先述のとおり、平安末期から幕末に至るまで、天皇は早々に譲位して上皇になり、院政を敷くのが当たり前だった。したがって、逆に正親町は、信長の要請に対して大いに喜んだとの記録が残っている。

 結局、正親町の譲位は実現しなかったが、それは信長が反信長勢力との戦いに忙殺されたからだろう。なお、信長は内裏の修繕を行ったり、節会の復興を手助けしたりするなど、朝廷に大いに貢献した。

■講和の勅命

 正親町と信長の関係が良好だったことは、講和の勅命(天皇の命令で和睦を結ばせること)を見れば歴然としている。以下、正親町が信長とその敵対勢力への講和の勅命を列挙しておこう。

(1)元亀元年(1570)、浅井長政・朝倉義景と信長。

(2)天正元年(1573)、足利義昭と信長。

(3)天正8年(1580)、大坂本願寺と信長。

 正親町は自らの権威でもって、信長を側面からサポートしたことになろう。

■正親町の最期

 天正10年(1582)6月、信長は本能寺で横死した。信長の死後、後継者となったのが羽柴(豊臣)秀吉である。正親町は、秀吉とも良好な関係を築いた。

 正親町が念願の譲位を果たしたのは、天正14年(1586)のことである。跡を継いだのは、後陽成天皇だ。そして、正親町が没したのは、文禄2年(1593)のことだった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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