【「麒麟がくる」コラム】ちょっと気になる三条西実澄、二条晴良、近衛前久、勧修寺晴豊。まとめて解説
■重要な役割の正親町天皇
大河ドラマ「麒麟がくる」で気になるのが、三条西実澄(さねずみ)、二条晴良(はれよし)、近衛前久(さきひさ)、勧修寺晴豊(はれとよ)である。この4人がドラマの中で重要な役割を果たしているのは明らかだが、ご存じない人も多いのではないだろうか。
そこで、今回は三条西実澄、二条晴良、近衛前久、勧修寺晴豊の略歴を紹介しておこう。
■三条西実澄
三条西実澄が公条(きんえだ)の子として誕生したのは、永正8年(1511)のことである。かの有名な知識人・実隆(さねたか)の孫でもあった。最初、実世(さねよ)と名乗り、実澄を経て、最終的に実枝(さねき)と名乗った。
三条西家は公家の家格で言えば、大臣家(摂関家、清華家の次)で極官は太政大臣である。代々、和歌に優れた人が多く、実澄も祖父や父から和歌を学んだといわれている。
ゆえに実澄も相当な知識人で、『三条西実澄卿聞書』、『三光院実澄公集』、『初学一葉』、『三内口決』などの著作(家集、歌論書、有職故実書)を著したことで知られている。
実澄のことで特筆すべきは、細川藤孝に古今伝授(『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えること)を行ったことだ。本来、古今伝授は秘事とされ、一子相伝のものだった。
しかし、実澄の子・公国は幼少だったため、弟子だった藤孝に「他人に決して伝授しないこと」などを条件にして、古今伝授を行ったのである。
実澄は天正7年(1579)に没し、公国も32歳で早世した。その後、藤孝は公国の子・実条に古今伝授を行ったのである。こうして古今伝授は断絶することなく、継承されたのである。
■二条晴良
二条晴良が尹房(これふさ)の子として誕生したのは、大永6年(1526)のことである。二条家は摂関家だったので、晴良は天文17年(1548)、永禄11年(1568)の2度も関白になった。
2度目の関白就任は、信長の意向である。以後、晴良と信長の関係は非常に親しくなり、晴良の果たす役割が重要視されるようになった。
元亀元年(1570)、晴良は織田信長と浅井長政・朝倉義景連合軍との和睦を斡旋し、信長の窮地を救った。これにより信長は、無事に岐阜城への帰還を果たしたのである。
晴良が亡くなったのは、天正7年(1579)のことである。
■近衛前久
前久が稙家の子として誕生したのは、天文5年(1536)のことである。はじめは晴嗣と名乗っていたが、前嗣を経て前久と名乗った。近衛家は摂関家である。
天文23年(1554)に関白になると、永禄3年(1560)には現職のまま越後の上杉謙信のもとへ下向した。2年後に京都に戻ったが、永禄11年(1568)に上洛した足利義昭とは反りが合わず、再び京都を飛び出し丹波や大坂を流浪した。
天正3年(1575)、信長の求めに応じて上洛するが、すぐに薩摩島津氏のもとに下向。しかし、信長の要請に応じて、天正8年(1580)に大坂本願寺との和睦を斡旋した。
前久が亡くなったのは、慶長17年(1612)のことである。
■勧修寺晴豊
晴豊が晴右(はれすけ)の子として誕生したのは、天文13年(1544)のことである。勧修寺家の公家としての家格は名家で(摂関家、清華家、大臣家、羽林家の次)、極官は大納言だった。
晴豊は天正4年(1576)から慶長4年(1599)の24年間もの間、武家伝奏を務めていた。武家伝奏とは、武家からの申し出を朝廷に取り次ぐ役である。
また、晴豊の日記『晴豊公記』『天正十年夏記』は、当時の政治情勢や公武関係を知るうえで、非常に重要な史料である。特に、本能寺の変の記事が充実している。
晴豊が亡くなったのは、慶長7年(1602)のことである。
■重要だった公家
信長といえば、諸大名との戦争が注目されるが、朝廷との関係も決して無視できなかった。ここに挙げた公家たちは、信長が朝廷と良好な関係を築くうえで、非常に重要な役割を果たした。
以後のドラマの展開でも存在感を示すはずなので、今後も彼らの動きは見逃せない。