【「麒麟がくる」コラム】織田信長の支援により正親町天皇の譲位は実現したのか。その経緯を検証してみよう
■正親町天皇の譲位について
大河ドラマ「麒麟がくる」では、正親町天皇の譲位をめぐって、二条晴良らが織田信長に資金的な面などで援助を求めていた。
結局、正親町天皇の譲位は実現したのだろうか。
■譲位の評価をめぐって
一般的には、織田信長が正親町天皇に譲位を勧めたといわれている。譲位問題に関しては、その意味をめぐって真っ向から異なる2つの見解が提示されてきた。次に、その要点を示しておこう。
(1)信長は正親町天皇に譲位を迫り、朝廷を圧迫した。
(2)信長から譲位の申し出を受けた正親町天皇は、感謝の気持ちを持った。
(1)は信長が朝廷を蔑ろにしていたという評価であり、(2)は信長が朝廷に奉仕しようとしていたという評価である。まったくの正反対な評価である。
(1)の評価は、信長と天皇は対立していたという視点である。つまり、のちに朝廷が背後で明智光秀を操り、本能寺の変を引き起こさせた要因になったということを示しており、これが朝廷黒幕説の一つの根拠になった。
以上のように、信長の譲位の勧めはまったく異なった評価が与えられている。まず、問題を読み解く前提として、最初に正親町天皇の譲位問題の経過を取り上げることにしよう。
■譲位の経緯
天正元年(1573)12月3日、信長は正親町天皇に譲位を執り行うよう申し入れを行った(『孝親公記』)。正親町天皇は信長からの譲位を勧める申し出を受け、関白・二条晴良に譲位の時期について勅書を遣わしたので、快諾したと考えられる。
勅書を受け取った晴良は、信長の宿所をすぐに訪問すると、家臣の林秀貞に正親町天皇が譲位を希望している旨を申し伝えた。晴良の申し入れを聞いた秀貞は、「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。
晴良の「御譲位・御即位等次第」に関する具体的な内容は、残念ながら詳しく記されていないが、余すところなく伝えたとある。
おそらく伝えた内容は、譲位の日程や費用の問題などだったと考えられる。正親町天皇が譲位に乗り気だったのは、疑う余地がないといえよう。
■当時、譲位は普通だった
平安時代の院政期以後、天皇は一般的に早い段階で譲位して上皇となった。上皇は「治天の君」として、政務の実権を握るのが普通だったのである。
ところが、戦国の争乱期になると、財政的な譲位が簡単にできなくなった。先述のとおり、即位式の費用が問題だったからである。
後土御門、後柏原、後奈良の三天皇は、生きている間に皇太子に譲位することができず、自らが亡くなってから、後継者の皇太子が天皇位に就くようになった。
即位式ができない状態は、天皇自身が希望したのではなく、あくまで財政上の問題だった。即位の儀式や大嘗祭などには、莫大な費用を負担する必要があったので、譲位をしたくても断念せざるを得なかったのである。天皇は各地の戦国大名に費用負担を依頼する努力をしたが、それでも譲位は実現しなかった。
■大変喜んだ正親町天皇
このような事情から、正親町天皇が信長の申し出に対して喜んだことは、容易に理解できるだろう。この場合の譲位とは、当然、信長が費用負担を申し出たものと考えられる。
早速、朝廷では即位の道具や礼服の風干(陰干し)を行い、譲位に備えたのである(『御湯殿上日記』)。では、譲位は実現したのだろうか。残念ながら、信長の存命中に譲位は実施されなかった。
信長は義昭と決裂して以降、その対応に振り回されていた。皮肉なことに義昭を追放したことにより、信長包囲網が各地に形成された。
それにより、信長は各地に出兵するありさまで、とても譲位どころではなかったのではないだろうか。特に費用面では、合戦の準備に費やされ、即位式に回せなかった可能性がある。
いずれにしても、信長は正親町天皇に譲位を迫ったのではなく、勧めたというほうが正しい。それは天皇への圧迫と捉える論者が指摘するように、信長が嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込んだものではない。事実は真逆で、譲位を望んでいたであろう正親町の意を汲んで、信長が勧めたと考えてよいだろう。
なお、正親町天皇が後陽成天皇に譲位したのは、天正14年(1586)のことである。