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【「麒麟がくる」コラム】斎藤利三が明智光秀に仕えようとした経緯とは。その真相を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は稲葉一鉄の家臣・斎藤利三を引き抜き、織田信長から不興をかったという。(提供:アフロ)

■明智光秀のもとに走った斎藤利三

 大河ドラマ「麒麟がくる」の第38回「丹波攻略命令」では、斎藤利三が主君の稲葉一鉄のもとを離れ、明智光秀に仕官したい旨を伝えていた。以後、利三は光秀の重臣となり、本能寺の変でも重要な役割を果たした。

 では、斎藤利三は、なぜ明智光秀に仕えようとしたのだろうか。

■実は光秀が利三を引き抜いた

 織田信長と明智光秀の間に確執が生じた理由として考えられているものとして、光秀が稲葉一鉄の家臣・斎藤利三を引き抜いた事件がある。今回のドラマの内容が相当し、この一件が本能寺の変につながったというのだ。

 利三はもともと曽根城(岐阜県大垣市)主の稲葉一鉄の家臣だったが、一鉄のもとを辞去し、光秀に仕官することになった。おそらく、光秀の誘いがあったからだろう。

 時期は、元亀元年(1570)の出来事であるといわれている(『稲葉家譜』)。ところが、一鉄は利三が光秀に仕えることを許さず、信長に訴え出たのである。

■拒否した光秀

 訴えを聞いた信長は一鉄の主張を認め、光秀に利三を一鉄のもとに返すよう命じたが、光秀はそれを拒否したといわれている。

逆上した信長は、光秀の髻を掴んで突き飛ばし、手討ちにしようとしたが、辛うじて光秀は危機から脱したという。光秀はこれを恨み、本能寺の変を起こしたというのである。

 戦国家法を見ると、家臣が新しい主人に仕える場合は、旧主の許可をあらかじめ取っておかなくてはならないと規定していることがある。

 つまり、信長が怒ったのは自分の命令に光秀が逆らったからではなく、当時の慣習に光秀が背いたからだった。一鉄は決して無理難題を吹っ掛けたのではなく、当時の慣習を踏まえたうえで、信長に裁定を求めたのである。

■光秀を軽んじた一鉄

 似たような話は、『柳営婦女伝系』にもある。利三は一鉄の婿であり、家臣でもあった。利三は武功が優れていたが、一鉄は重用しなかった。

 利三はこれを恨んで、3回も稲葉家を辞去しようとしたが、その度ごとに一鉄に阻まれた。その後、利三は光秀に仕えたとされるが、一鉄と光秀が揉めた話や経緯は記されていない。

 『稲葉家譜』は家譜一般に共通するとおり、祖先の顕彰を目的の一つとしているので、どこまで内容が信用できるのかわからない。『柳営婦女伝系』も後世に成ったもので、信用度は落ちる。

 利三が主君を光秀に変えたのは事実としても、信長が光秀に暴力を振るったことは史実であるか否か、検証が必要であろう。

■まだある異説

 しかし、この件については異説がある。以下、『続武者物語』に載る逸話である。

 信長が光秀の髻を掴んで突き飛ばしたと述べたが、『続武者物語』は違う話を載せている。

 激怒した信長は光秀の額を敷居に擦り付けて折檻したところ、光秀は月代から血を流しながら、「(光秀が)30万石もの大禄を拝領し、さらに優秀な侍を引き抜いたのは、主君である信長のためであって、私利私欲のためではない」と弁明したという。つまり、利三の引き抜きは信長のためだと主張したのだ。

 光秀の答えを聞いた信長は、脇差を指していたら手討ちにするところだが、光秀が丸腰なので許したと伝わっている。光秀は危機一髪だったのだ。

■信じがたい説

 以上の話は内容が劇的なだけに、にわかに信じがたい説である。『続武者物語』は、単なる武将にまつわる逸話集で、裏付けとなる史料がないので信が置けない。

 率直に言えば、『稲葉家譜』『続武者物語』などの二次史料の記述は脚色が著しく、信用できないように思う。今回のドラマでは、一鉄が身勝手な暴君だったからだと理由付けをしていたが、それは正しいのだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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