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【「麒麟がくる」コラム】ああ無念。果敢にも織田信長に戦いを挑んだ足利義昭の悲惨な顛末とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足利義昭を推戴して入京した織田信長は、やがて義昭との関係が悪化し決裂した。(提供:アフロ)

■ほぼスルーだった足利義昭の敗北

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第37回「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」は急展開で、天正元年(1573)における足利義昭と織田信長との戦いはほぼスルーだった。

 今回は、ドラマでほぼスルーされた足利義昭と織田信長との戦いを取り上げることにしよう。

■対決はじまる

 天正元年(1573)7月3日、足利義昭は槙島城(京都府宇治市)に籠もって、織田信長に叛旗を翻した。実は、これ以前にも対決して和睦を結んだが、それを破棄して戦いを挑んだのだ。

 槙島城は義昭の重臣・真木島昭光の居城である。宇治川水系に築かれた堅固な城郭として知られていたが、信長の大軍勢を前にして、とうてい勝ち目があるとは言えなかった。

 同年7月6日、信長は軍勢をすぐに槙島城へ送り込むと、自身は翌日に佐和山(滋賀県彦根市)から新造したばかりの大船で坂本(滋賀県大津市)に到着した。同年7月9日には上洛して、妙覚寺(京都市上京区)に入ったのである。

■二条御所の落城

 同年7月12日、信長の大軍が二条御所に押し寄せると、守備していた三淵藤英は抵抗したものの最終的に降伏し、御所は無残にも破却された。

 三淵藤英・秋豪父子は降参して許されたが、のちに身元は光秀に預けられ、天正2年(1574)7月6日に坂本城で自害を命じられたのである(『東寺光明講過去帳』)。

■槙島城の落城と室町幕府の滅亡

 同年7月16日になると、槙島城は織田方の大軍に包囲された。槙島城を囲む軍勢のなかには、信長の家臣としての明智光秀の姿があった。

 かつて光秀は義昭に仕えていた経緯もあったが、このときは信長の指示のもと、槙島城の攻撃部隊に加わっていたのである。

 翌7月17日、槙島城に攻撃を仕掛けた信長は、早くも翌日には義昭を降参に追い込んだ。しょせんは多勢に無勢だった。ここに至って、ついに室町幕府は、事実上滅亡したのである。

■逃げる義昭

 その後の経過であるが、義昭は大坂本願寺の顕如の斡旋によって、三好義継の居城である若江城(大阪府東大阪市)に移った。代わりに信長は、義昭の子・義尋を人質として預かった。

 信長が人質として義尋を抱え込んだということは、まだ将軍という存在に価値があったからと認めたからだろう。信長は、決して義昭を殺さなかった。

 『信長公記』によると、義昭を殺さなかった理由として「天命恐ろしき」ということが提示されている。かつて将軍を殺した者で、まともな人生を全うした者はいなかった。

 鎌倉幕府の3代将軍・源実朝を暗殺した公暁、室町幕府の6代将軍・足利義教を殺害した赤松満祐は非業の死を遂げた。信長は、そのことを憂慮したのであろう。

■執念が衰えなかった義昭

 敗北を喫した義昭であるが、室町幕府再興の執念は決して衰えなかった。義昭は各地を転々としながら、上杉謙信、毛利輝元、大坂本願寺などと連携し、「打倒信長」「室町幕府再興」をスローガンにして、戦いを継続する。

 義昭は実質的に将軍の肩書を失っていたが、決して朝廷から解任されたわけではない。義昭と同じく、「打倒信長」という目的を同じくする協力者もいた。

 ところが、義昭の執念とは裏腹に、続々と舞い込むのは悲報ばかりであった。天正元年(1573)8月、長らく懇意にし、友好関係にあった越前の朝倉義景、近江の浅井長政が信長の前に屈した。朝倉氏と浅井氏の滅亡は、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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